不思議な町、奈良県橿原市
次男が橿原市にある大学に入学したこともあって、現在橿原市の歴史に興味を持っている。高齢の母が尼崎のサービス付き高齢者住宅で一人暮らしをしていることもあって、年に1回は尼崎を訪れている。ついでに橿原市に2度ほど行き、レンタサイクルで市内を回った(次男は札幌に帰省しているときばかりであるが)。一度目は1月2日だったので、博物館や資料館はほとんど開いていなかった。さすがに4日になったらすべて営業が始まるだろうと思って、今年は4日に橿原に行く予定を立てて、尼崎行きを決めた。ところが4日にも主要な博物館は開いていない。5日から、あるいは6日からというところが多かった。なぜ4日(平日で仕事始めの日である)から開かないのか?これも不思議なことといえばそうであるが、今回書きたい不思議なことはそれではない。もっと日本史の根幹に関わることである。
不思議その1 橿原神宮
橿原神宮は、日本の初代天皇とされる神武天皇とその皇后を祭神とする神社である。私は茨城県の鹿島で小学校2年生から高校卒業まで住んでいたが、その町にある鹿島神宮や千葉県香取市の香取神宮は、神代の昔から人々の信仰を集めている。紛れもなく日本の神社の草分け的存在である。しかし、橿原神宮が創建が明治政府に認可されたのはなんと明治23年(1890年)のことである。日本書紀や古事記によると、神武天皇は橿原市にある畝傍山で初代天皇として即位し、畝傍山の東南部に都を造ったとされ、その跡地に橿原神宮が造られているはずだが、当時は畑地で古代の都の跡は何もなかったという。きちんとした歴史的裏付けを持って建てられたというより、ときの明治政府が、天皇の系図に絶対的な価値を持たせるために、日本書紀や古事記の伝承に基づいて創建したというのが本当のところのように思うが、どうだろうか?
1月2日、4日に橿原神宮を訪れているが、初詣客でごった返していた。関西では春日大社に並ぶほどの初詣客を迎えるというのだ。創建から140年間、多くの人の信仰を集めているのだけは確かなようだ。
不思議その2 神武天皇陵
「神武天皇は実在したのか?」もし太平洋戦争前にこんなことを言ったら、不敬罪で逮捕されていたことだろう。しかし、戦後の歴史学者はこの問題に科学的に取り組んできた。諸説出てはいるが、私は「実在しなかった」と言うのが、歴史学界の定説であると考える。従って、本物の陵墓もあるはずはない。しかし現在、橿原市に「神武天皇陵」は存在する。幕末から明治にかけて、地域の伝承や残された古文書などから、現在の場所に比定され、整備が進められたようだ。おそらく明治政府による天皇の「神格化」政策の一環でもあったのだろう。
現在の神武天皇陵も、毎年多くの参拝客を迎えて信仰の対象になっている。私はそれを否定するつもりは毛頭ない。ただ私は見物しても参拝はしない。
不思議その3 藤原宮跡
神武天皇陵から東に数km行くと、藤原宮跡がある。広場の中に、発掘によって見つけられた場所に礎石と柱の一部が復元され、建物の跡がわかるようになっている。まわりの広場は、子ども連れの人が凧を揚げるのには最適の場所である。
ここは、694年に持統天皇が遷都し、710年に元明天皇が平城京へ遷都するまで、皇宮が置かれ、政務が行われていた場所である。発掘調査により事実であることが確認されてる。
2度訪問しているが、いずれも「藤原宮資料室」は休業していて、現地での調査について資料を見ることができていないが、もし過去に皇宮のような大きな建物が建っていたのであれば、何らかの痕跡が残るということを藤原宮跡は物語っているように思う。
神武天皇が造ったとされる「橿原宮」はまったく痕跡がなかったという。当時は天皇の代替わりの度に遷都が行われ、先代の天皇の都はうち捨てられる運命にあったのだからしょうがない。と考える人もいるだろう。しかし、もし神武天皇が実際にいて、紀元前660年に都を造営したのであれば、そこに何の痕跡もないのは不思議である。
最後に
以上書いたことは、ネットの情報をつまみ食いして書いた私の私見に過ぎない。間違っていることもたくさんあるだろう。いつか色々なことをきちんと調査して、この不思議に挑んでみたいという夢というより、野望を持っている。一番の問題は、それを実現する時間が、私に残されているかどうかである。