私の履歴書 #2
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大学以前
小学生の時に1回の転校をした私は、特に際立った出来事もないまま、とある地方(以下、地元)で高校卒業までを過ごし、地元から離れた大学に進学した。
そこに至る経緯から書きたいと思う。
中学
通っていた公立中は非常に荒れていた。
イタズラで非常時の火災警報器が押され、警報が鳴り響く状態がデフォルトだったため消防ももはや来ず、廊下の窓ガラスはほとんど割られ、3階や4階の窓から不定期に机や椅子が降ってきた。
登下校では野球部でもないのに金属バットを持った短ランボンタンの集団がたむろし、学校の廊下では先輩が自転車で移動していた。
先輩とすれ違うときは、直立で停止し90度の角度でお辞儀をし「こんにちは!!!」と大声で挨拶しないと通過が許されなかった。
自転車通学時のヘルメット着用が校則で定められており(いわゆるヘル中というやつである)、ノーヘルは先輩だけに許された特権であった。
ノーヘルでの通学が先輩に見つかろうものなら、
「ヘルメットちゃんと被れや!!!!!」
と注意され、目を付けられた奴は駐輪場の自転車がボコボコにされた。
(下校時に自分の自転車の無事を祈る毎日だったことを今でも鮮明に覚えている)
生活指導の体育教師は車のタイヤがパンクさせられ、窓の隙間から消化器を噴射されていた。
加えて、家に帰れば両親は毎日なにかしら言い争いをしており、隣の家のババァ(同級生の祖母)は学期末ごとに私の通信簿がどうだったか探りを入れてきた。
そのような環境は、私に
「一日でも早くここから離れたい」
と決意させるには十分すぎた。
そのためには大学に行くことで地元を離れ、一人暮らしをしなければならない。
そんな動機から私は勉学に励み、地方の公立進学校に進んだ。(地方は進学校が概ね公立である)
高校
今でいう「陰キャ」だった私に、甘酸っぱい高校時代の思い出などない。
修学旅行では、クラスカーストの上位でも最下層でもない中途半端なあぶれた面子で班が固まり、夜にカースト上位の男女がどこかの部屋に集まってウェイウェイしてる現実から目を逸らすように、部屋で「しおり」を何回も読み返した。
2回の留年(1)
そんなわけで、青春時代を勉強に全振りした結果、私はいちおう聞けば誰もが分かるだろう大学に現役で入学することができた。
そして、燃え尽きた。
地元を離れることだけがモチベーションだった私は、大学に入ることがゴールだった。
さらに、屈折した動機から鬱々と勉強し合格した地方の進学校()出身の芋臭い私の前に、垢抜けた都会の本物の進学校出身者の集団が立ち塞がっていた。
彼らはすでにトランクスではなくボクサータイプのパンツを穿き、セレクションがあるインカレテニサーでJDたちとこの世の春を謳歌した。
それとは別の志の高い学生は、国家公務員試験や弁護士・会計士などの国家資格勉強のために資格予備校等に通った。
大学生の夏休み、冬休みは長い。
形だけ入ってみたイベント系サークルにも馴染めなかった私は、サークル合宿に参加することもなく、近所の本屋で「じゃマール」と「テレビブロス」を立ち読みしていた。
その時、隣の書棚に「地球の歩き方」(旅行ガイドシリーズ)が並んでいるのが目に留まった。
第二外国語に中国語を選択していた(単位取得が楽だった)私は「地球の歩き方(中国)」を手に取った。
興味本位で目次から「行き方」が記載されたページを繰る。
そこには、神戸港または大阪南港から片道2万円程度(確か)で上海行きの船が出ているという情報が記載されていた。
私は海外旅行どころか飛行機にすら乗ったことがなかった。
なぜだろう、当時、私には飛行機に乗るということが万里の長城のように高い壁に感じたのだ。
それに比べ、船は乗ればいいという謎の安心感があり、何より安かった。
(今振り返ってもなぜそう思ったか分からない)
パスポートの申請と取得を終えた私は、高校の修学旅行でも使ったイケてない斜めがけのボストンバッグもどきを肩に掛け船に乗った。
乗船から24時間後、当たり前だが、船は上海に着いた。
(続く)