grief /対象喪失による哀しみ
舞台のお客様として知り合った医療関係のお仕事をしてるYさんに公演のお知らせをお送りしたところ、お忙しい時期で来られない謝辞とともに「今、グリーフケアについて考えているところなので、お芝居の内容も気になるのですが・・・」との言葉が添えてあった。
grief ・・・悲哀・悲歎
大江健三郎さんの小説で知った言葉。
この稽古(2008年当時)に入ってから、静かだけれどずっとわたしに流れている気持を表すのは、この言葉だったのかもしれない。
「グリーフケア」で検索した。
グリーフ(grief)とは、『悲しみ(悲哀)』のことであるが、特に、自分の愛する他者や大切なモノを失う『対象喪失(Object Loss)』に付随して起こる悲哀のことをグリーフということがある。
(参照:対象喪失の悲哀とグリーフ・カウンセリング
http://digitalword.seesaa.net/article/35765288.html)
詳しくは上のURLで続きを読んでいただければとても分かりやすいと思う。
Yさんによれば、海外では一般的だそうだが、日本ではまだまだ研究途上の分野らしい。
次の作品は三姉妹が交通事故で両親を亡くして5年後の物語。
悲哀や悲嘆のケアをするグリーフ・カウンセリングが必要となってくる対象喪失の事例には、『予想もしない時期に突然の別れが訪れた事例』や『強く信頼していた相手から理不尽に裏切られた事例』『自分の希望や要求とは正反対の状況変化や環境変化が起こった事例』『自分の素直な感情や気持ちを表現することが許されない状況』などが多く見られる。
(参照:対象喪失の悲哀とグリーフ・カウンセリング http://digitalword.seesaa.net/article/35765288.html)
私が18歳の時に父が病死した。当時は気づかなかったが、いま振り返ればそこを転機から変わったことは確かにある。それまでいわゆる優等生な生き方をしていたから、自分はそこそこ大人だと思っていたし、余裕を持って回りを見ているつもりでいた。その「優等生的判断」でなのか、父のお通夜でもお葬式でもわたしは泣かなかった。兄のお嫁さんがわんわん泣き、高校生の実娘は涙も流さないという状況。
我慢している自覚はなかった。泣きたいのに泣かないのではなく、かといって父が死んだことが理解できないほど幼くもなく。姫宮美貴という私の役の思考と全く同じで、私は「私の役割をしなくてはいけない」という自覚で動いていた。葬儀に来てくれた人たちに対して、娘として、きちんとしてなくてはいけないということ。自分のかなしみに浸ることよりもそっちを選んだ(のだと思う)。先に言った通り、抑制している自覚はまるでなかったから、自分でも「お父さんが死んだのに悲しくないのかな、わたしは冷たいのかな」と思っていた。
お通夜の弔問が終わり、親族だけになった夜遅く、長兄が母に「最期までありがとう」と言った。
母は後妻で母の子はわたしだけ。兄ふたりは先妻の子で、母と血の繋がりはない。
兄はそれからわたしに「麻里も20歳になったら酒呑みに行こうな」と言った。
それでわたしは、たくさん泣いたんだった。
次の舞台の冒頭の両親の交通事故死の時、私の妹役である美子(みこ)がちょうど、このわたしの年齢18歳。
姉さん=美和(みわ)が30歳、わたし=美貴(みき)が23歳。
それから5年後、現在の美和・美貴・美子の物語は進行する。
両親を急に失い、信頼すべき人も失っていった美貴にとって、仕事に没頭することが自分の存在意義を見出す手段だったようだ。美貴はおっとりしてる姉さんと、まだ子どもの妹を守るつもりで、でも本当は姉さんが強い人なのは知ってるし、美子ももう子どもじゃなくなって来てるのを知ってる。知ってて、「まだ自分がいないと・・・」と思っていたいんだ。
幸い、実際のわたしは母も元気だし、友人にも恵まれていたから、壊れることなく成長できたけれど。
いま思い返せば、母は気丈だった。泣きはしたけど、ぼろぼろにはならなかった。たいした人だ。
闘病期間が短くはなかったので、事故などの突然死に比べて、心の準備ができていたとも言えるかもしれない。それでも、いくら覚悟していたとはいえ、想像と実際は違うのだから。
いまはこうやって振り返ることもできるけれど、逝く側も、遺される側も、別れるのはつらい。でもいつかは、やってくるんだ。
(2008年6月4日の日誌より)