雨、アナキズム、フルクサス、爪
どこか遠くでわたしを濡らしていた雨がこの世へ移りこの世を濡らす(大森静佳『手のひらを燃やす』、株式会社KADOKAWA、2018年、p.148
雨の降りはじめた音が耳をうつ 末路といえばすべて末路だ(岩倉文也『傾いた夜空の下で』、青土社、2018年、89p
雨のひどくふつてる中で
道路の街燈はびしよびしよぬれ
やくざな建築は坂に傾斜し へしつぶされて歪んでゐる
萩原朔太郎「みじめな街燈」(部分)
今日は雨が降っている。しばらく雨がつづくらしい。雨の降る日は調子が悪い。たいてい灰色の部屋の中で煙っている。今日はネットで注文していたJosh Macphee&Erik Reuland編集の”REALIZING THE IMPOSSIBLE ART AGAINST AUTHORITY"という、アナキズムと芸術の関係について述べた小論やインタビューをまとめた本が届いた。冒頭にMax Blechmanという人の、「アナキズムは不可能だと言われている。芸術的な活動は不可能を実現するプロセスである」という言葉が掲げられている。芸術がもたらす異化作用が、解放区というか、一時的自律ゾーンを生み出すということだろうか。目次を見ると、第三部にデヴィッド・グレーバーの「指導者主義の黄昏」という論考が収録されていて楽しみ。あまり英語が得意ではないので、辞書を引きながら少しずつ読む。今日は前書きとCarlos Cortezのインタビューの章だけ読んだ。アンリ・エドモンド・クロスやポール・シニャックなど、少なからずアナーキズムから影響を受けた新印象派の画家達が用いた点描画法は、無数の独立した点(個人)がそれぞれ自律的に、かつ調和して存在する一つの画面(社会)を作り上げるための技法であったという指摘が面白かった。
アンリ・エドモンド・クロス《夕方の空気》、1893年、オルセー美術館
ポール・シニャック《調和の時間》、1893-95年、モントレオール美術館
また、アナキズムが直接的に又は間接的に影響を与えた芸術運動として、後期印象派以外にも、ダダやシュルレアリスム、レトリスムやシチュアショニスム、フルクサスなどが挙げられている。フルクサスというのは1960年代前半から起こった芸術運動で、アメリカ人アーティストのジョージ・マチューナスがその主導者であったとされている。メンバーにはヨーゼフ・ボイスやナム・ジュン・パイク、オノ・ヨーコなども名を連ねており、美術家だけでなく音楽家や作家や舞踏家までをも含んだ、表現手段や媒体の垣根を超えたインターメディアの実践が試みられた。フルクサスという言葉の語源がラテン語で「流れる、なびく、変化する、下剤をかける」という意味を持っており、73年にマチューナスが発表したマニフェストにおいても、自身をはっきりと定義することはせず、絶えず流動的であることに意識的であった。ギャラリーだけでなく路上やアパートの一室でもパフォーマンスやイベントを行い、ギャグやジョークの要素を多分に含み、日常と芸術の境界を攪拌する意図があった。また、「フルックスキット」と呼ばれる、既製品に手を加えて異なる意味を付与したオブジェを多数制作する活動もコンサート等のイベント活動と並行して行われた。フルクサスのパフォーマンス行為は、事前に計画されたものである点で、その場限りの一回性を重視するパフォーマンス・アートとは区別される。フルクサスの活動はパフォーマンス・アートと同様に記録に残りにくいもので、また彼らが意図的にメンバーや活動領域を確定させなかったこともあって、後代の人間からすると彼らの活動の全容や特徴が見えにくいが、1970年にケルンで行われたフルクサスの展覧会のカタログが彼らの活動を活き活きと伝える資料となっているようである。
夕方、恋人がクリムトのネイルシールをしているのを羨ましがっていたら僕にも灰白色のネイルを塗ってくれた。指先が色めくだけでなんだか全身が可愛くなったような気がして嬉しかった。
参考:
https://artscape.jp/artword/index.php/%e3%83%95%e3%83%ab%e3%82%af%e3%82%b5%e3%82%b9
https://fashionpost.jp/journal/think-about/133415
https://www.moma.org/interactives/exhibitions/2011/fluxus_editions/category_works/fluxkit/