2021/12/31
悲しみに閉ざされて、頑なになっていく心を、長い時間をかけて解きほぐしていくような一年に、なっていれば良いが、それを振り返るには一年は間隔が短すぎる。まだ素晴らしいとは感じていなかった日々が、冬の光のように、鈍い輝きを放ち、かすかな体温で息づいていたことに気がつく時が来たら、オルガン・ドローンの響き、Kali Maloneの『The Sacrificial Code』を聴きながら、なんとなく静かな気持ちになってくる。白い背景を眺めていると、耳の奥に水の流れる音がしてくる。
記録によれば、今年はじめに読んだ本はカニエ・ナハの『九月十月十一月』であり、今年最後に読んだ本もカニエ・ナハの『CT』だった。横書きの「彫刻」と、縦書きの「演劇」が交互に配置されている。ミニマルで彫塑的な「彫刻」と、舞台の上での世界の要約であるような「演劇」が並列され、繰り返され、変奏され、やがて唱和するように、ひとつの詩的空間が立ち上がる。それぞれの詩句が、本の中に清潔に配置されている。同じ言葉やモチーフが何度か繰り返されていて、詩集のページを手繰っていく、その動作の時間・空間の奥行きのうちに、継時的・立体的に並んでいく言葉の、現れてくる痛みの森の、それぞれの手触りやずれ、位置関係が一冊の詩集を構成していて、紙の本にすることを前提にして詩を書き継いでいくことや、それを組み立てていく作業は、インターネットに詩を垂れ流すのとは、その開始地点から違ったものになるだろうと思った。僕も来年は、紙の本を出してみようか。
気もそぞろで落ち着かない時に、なんとなく開いて読んでみる、そういう読み方をしているゴダールの『映画史』を今日も開いて、ひとりの人物が複数の声を持っていることや、多数の人間が一つの役を演じることもあるということ、そういったことを表現したいと最近は考えていると彼が語っている箇所を読んだ。ゴダールの話は面白い。何を考えだすかわからないからだ。彼の話はあちこちに広がり、ちっとも収束していかないが、ゴダールの映画もそうだ。僕は考えるということは、たとえば定義を与えることだと思っていたが、どうやらそういうものではないらしいと、最近は考えるようになった。ゴダールの思考は、というよりも、彼の手法は、シーンとシーンを繋ぎ合わせ、一連の音と映像と言葉の組み合わせを、観る者に提示することにある。ある風景を、会話を、歴史的事件を、身振りや視線を、組み合わせて、彼はそれを提示するが、ある種のドキュメンタリー映画がそうであるようなやり方で説得するようなことはしない。なぜ、これらの映像が並んでいるのか、なぜこのことが起こっているのか、そしてそれはまたほかの映像や、それを観ている私たちに対していかなる関係を持っているのか、提示されたひと連なりの映像から、これらの問いが矢継ぎ早に提起される。これらの問いが可能になるのは、ゴダールの映像は、多くの映画がそうであるようには物語に従属していないからだ。
今年あったことを簡潔に振り返ってみようと思い、書き始めてみたが、結局のところそれとは違ったものになってしまった。書くことを通じて別人になっていくこと、変わるために書くことに、ぼんやりとした関心があって、そのためにはこのようにその場の思いつきを書きつけていくのが良いかもしれず、何の計画もなくてもとりあえず机に向かってみるということを習慣にして過ごしてみるのも悪くないかもしれない。