満たすと幸せになれる壷の話
突然だが想像してみてほしい。自分が5000円で買ったのと全く同じ物が3000円で売られていたら、購入したものに5000円の価値があるか問うのではなく、「2000円損をした」と考えると思う。
滅多なお金持ちでない限り、我々は限られたお金を幸せの最大化のために使っている。3000円で得られるはずだった幸せに5000円を払ったとなると、得られた幸せから「2000円分損をした」という気持ちが差し引かれるため、5000円を使って得られるのは、実質3000円分の幸せ-得られるはずだった2000円分の幸せ=1000円分の幸せということになる。これはいけない。
これを前提にして、タイトルにあった「幸せの壷」について話したい。私は高い料理をその値段分楽しめている自信がない。味の違いがわからないわけではないし、「良いものを食べたなぁ」という経験から得られる満足感は幸せとして感じられるものの、例えば10000円のステーキを食べたときに得られる幸せが100だとして、私の壷は30しか容積がないのだ。17アイスでちょっと他より高いプレミアム版を選ぶだけで割と満タン近くまで満たされてしまうのだ。
そうなると、得られるはずだった70の幸せを私は逃していることになる。10000円払って肉食べて、差し引き40不幸になって後悔して店から出てくる。やばすぎる。
ただこれは、食事に関する私の幸せの壷の容積が30しかないためである。私は「人から好かれる、認められる、尊敬される」ことについては壷の最大容積が大きいため、友人に1万円のステーキを奢る、あるいは奢ってもらうとなれば、まだしっかりその価値分に近い幸せを感じられるかと思う。
様々な分野に関して幸せの壷が大きいということは一長一短である。壷が溢れる心配がなければ質の高い(?)サービスを余すことなく感じられるし、リソースを無駄にするかもしれないという心配がないので色々なことに挑戦出来る、ただ、壷はいつまで経っても、どれだけリソースを割いてもみたされない。そういう意味では自販機のアイスで機嫌の取れてしまう自分の方が幸せかもしれない。
だから、「◯◯費を抑えれば◯◯にもっとお金をかけられるのに」と人を非難するのは間違っている。自分の得たリソースについて、幸福が最大化するよう使用割合を決めることは、何ら間違っていることではない。その代わり、現状何の壷も満たされていないと感じる人は、容積を小さくする(足ることを知る)か、リソースの総量を増やす必要があるかもしれない。
いくら注いでも満タンにならない壷に固執して注ぐものが足りないと嘆くより、もっと簡単に満たせる壷を探せばよい。しかし、特定の壷を干上がったままにしておくと、それを大切にしている他人の気持ちを一切理解出来なくなってしまうので、それは注意したい。
何にせよ、分野毎の自分の壷の容積と、そこに注ぎ込んでいる量を見直すというのは、幸せに暮らすための近道である。