
結
“そのうちに普請がはじまった。材木をひいてきた馬や牛が垣根につながれているのを伯母さんにおぶさってこわごわながら見にゆく。”
中勘助 「銀の匙」(岩波文庫)より
中勘助の銀の匙の中で書かれている普請(ふしん)とは、広く平等に資金・労力の提供を奉仕することであり、地域扶助の精神の結です。鎌倉時代の歌に “ゆひもやとはで、早苗とりてん” と読まれたものがあります。鎌倉時代の歌で田植えや屋根の葺き替えなどの共同作業に無償で協力していたことを意味しています。
結の考え方はアジア圏において広くあり、沖縄ではゆいまーるまたは、いまーると呼ばれます。ゆいは結を示し、まーるは回るで、順番に平等におこなうという意味となります。朝鮮半島ではプマシやトゥレなどが似た意味を持っています。台湾やインドネシアには地域扶助と相互信頼の仕組みとして隣組(となりぐみ)の制度が第二次世界大戦時に日本が持ち込みました。
隣組は昭和初期に戦時の治安を維持するためにつくられた官主導の隣保組織 で1940年9月11日に当時の内務省が訓令した隣組強化法と呼ばれる部 落会町内会等整備要領(内務省訓令17号)によって制度化され、5軒から 10軒の世帯を一組として、団結や地方自治の進行を促し、戦時の住民動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などをおこなっていました。いわば緩やかに相互の信頼から結ばれる結の考え方でもありますが、思想統制や住民 同士の相互監視の役目も担っており、相互信頼という本当の意味での絆は薄らいでいたように察します。異なる思想を持つものは村八分を受けることになり、戦後の1947年GHQにより隣組は解体されましたが、回覧板など一部の活動は、町内会や自治会に引き継がれています。
鎌倉時代に貴族や社寺などの私有地を荘園として土地や人々を支配する荘園制度ができるまでは農地と農民は全て朝廷のものでしたが、武士の台頭で公領領主や地頭武士が統治をする村社会に変化しました。それ以降、自治意識と連帯意識の向上により村社会は相互扶助的な性質を持つ一方で経済的階層や家柄による家格などが生まれ、村の秩序維持のための青年組織などがつくられて惣村(そうむら)が生み出されました。惣村は統治者が統治していましたが、命令を全て受け入れていた訳ではなく権利の要求もおこなっていました。こうした活動を通じて自治権が強化され、反対に統治者側も惣村の了解が得られない限り、勝手に法令や規制を発布できない状況でした。自治権を持つ代わりに惣村独自の自警の必要も出てきて、惣掟(そうおきて)が造られました。惣掟は、村掟(むらおきて)、地下掟(じげおきて)、村法(そんぽう)とも呼ばれます。
結と惣掟の関係性は不明ですが、結は風習や習慣的な温かみのある人と人の明文化されないつながりですが、惣掟は明文化された規則です。我々がなんとなく普通に感じている相互扶助の考え方は欧米ではほとんど見られないので世界に誇れる日本文化であると思います。今問題となっている過疎化や空き家問題なども結の考え方をすることで解決の糸口が見つかるような気がします。