日本の住まい 2
昨日の続きです。時代が進み飛鳥時代には朝鮮半島を経有して自然石の上に柱を建てる礎石建物(そせきたてもの)の技術がもたらされ、掘立柱の弱点でもあった柱の根元の腐朽(ふきゅう)しにくい構造となり建物の耐久性が伸びました。礎石建物は高い木材加工技術が必要で社寺建築(しゃじけんちく)や城郭建築(じょうかくけんちく)には用いられましたが、一般の住宅にまで浸透したのは鎌倉時代だと言われています。
飛鳥時代を代表する建物は奈良の旧斑鳩宮(いかるがのみや)側の法隆寺(ほうりゅうじ)で推古天皇15年(607年)に厩戸王(うまやどのおう 聖徳太子)よって創建されたと言われています。厩戸王は当時の朝鮮半島百済(くだら)から番匠(ばんしょう)と呼ばれた名工とされる大工職人や瓦職人を招請(しょうせい)したとされ、現在も厩戸王(聖徳太子)を職業神として祀り大工や木挽職(こびきしょく)の職人が集まり行われる太子講(たいしこう)がおこなわれています。太子講では厩戸王(聖徳太子)の像を祀り、曲尺(さしがね、かねじゃく、差金、指矩)や墨壺(すみつぼ)ヨキ(斧 おの)などの大工道具を並べます。飲食などもおこなわれ賃金や申し合わせなどの相互扶助や親睦の場でもあります。
中世以降は総柱型建物(そうばしらがたたてもの)が主流となってきます。当時は平家の建物が基本となり、母屋(もや)と呼ばれる屋根を支える天井より上の空間と屋外の庇(ひさし)を持ち、内部空間は碁盤の目の様に柱の間隔が2m~2.4m前後で統一された建物をいいます。この柱で囲まれた空間を間(ま)と呼ばれ、現在も柱間のスパンを間(けん)と呼ばれ、一間や一間半と呼ばれる日本の住宅のモジュールとなっています。ただこのモジュールは地域により異なり京間や江戸間など様々です。この柱間の間に使用目的により間仕切り壁が設けられ現在の住まいへと続いている。この考え方で建てられた建物を伝統構法(でんとうこうほう)と呼び、柱で屋根の重量を支える木造軸組構法(もくぞうじくぐみこうほう)と呼ばれる建築工法であり間仕切り壁は屋根の重さを負担していないので壁の移動は容易におこなえた。現在の住まいは伝統構法をベースとした在来工法(ざいらいこうほう)と呼ばれる建築工法が種であるが、これは間仕切り壁に地震時の建物の傾きを防ぐための耐力を負担させており簡単に移動できない構造となっている。
江戸時代の封建制度時は身分により住まいに使う材料や間取りや規模などに制約があり武士の階級には床の間や畳、瓦葺の屋根が許されたが農家住宅などは茅葺屋根に柱の見えない大壁の土壁しか使えなかった。ただ、武士が訪ずれる庄屋屋敷は失礼が無いようにと武家屋敷と同じような造りで建てられ、住宅密集地である街道沿いの商家などは防火の観点から瓦屋根や漆喰壁などが用いられており実は曖昧な部分もあったのではないかと思います。また街道沿いの商家では厨子二階(つしにかい)や中2階と呼ばれる。