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遠藤周作の本
絵が上手い人は手指の技術が優れているというより目が良いのだと聞いたことがある。凡人の目には見えぬ鼻の影が見えるから、描いて高低差が出せるのだし、細かい線の濃淡まで見えるから、まるで触れたかのような材質感が伝わるのだそうだ。確かに。遠藤周作だけではないのだが、作家としてこの人は、凡人にはない「目」を持っていて、見たまま、微に入り細に穿ち細い絵筆を震わせるようにして著すことができる。洞察力と言ってしまうとつまらないのだけれど。
ただし、目を通して書くべきことは蓄えられたまま、長い間書いてもらえないことがある。らしい。ということがわかった。学生時代、文学部にいた私も何かを書こうとして、赤裸々に迫ろうとすればするほど、そのモデルとなる人たちのことが気にかかったものだ。例えば恋人に知られたらどうしよう、とか、友人に「これ私のこと?」って聞かれたら厄介だとか、まして家族の本物のゴタゴタなどには絶対触れられるはずもなかった。さらに最も困難だったのは、自分に向き合うことである。とにかく正直に本気で書くことは、想像以上に勇気が要った。そんなことをやってしまったら(書いてしまったら)普通の生活はもう営めそうになかった。
作家というのはそれができるガッツを持ち、普通の人生を諦めてもなお、それを上回る結果の出せる天賦ある人たちである。それでも「書けないこと」はあるらしい。音楽でも美術でも何でも、表現に関わる人たちは皆、このテーマを抱えているのだろうな。
読破まではいかないが、割と読んできた遠藤周作の未発表の原稿が見つかったというニュースに、ものすごく興味を惹かれ、上野駅内の本屋でそのモダンな装丁に出会った時、本が、令和を選んでわざわざやってきたように見えた。人も場所も何もかも全員死んで消えてほとぼりが冷めた後に君は来たのか。物語は、ああ、こんなふうに繋がるのか。と思った。それでもまだ書かれていないことがあるのを感じた。そのことがまるで「つづく」の文字のように、世界を奥の方に広げていった。
キリスト教とイスラム教の神様は男性で、ヒンズー教と仏教は女性だとか、ちょっと聞いたことがある(都市伝説に近いけど笑)。そのことをふと思い出し、不思議に感じたのは、(私が読んだ中での)遠藤周作の書くキリスト教の神様が、いつも全然男らしくはなかったことである。なんというか圧迫感のない、弱い尊い存在だった。今回、そのわけがわかったような気がした。
この旅、面白かったよ。