小説 桜ノ宮 ①
ありふれた春の午後だった。少し冷たい風に桜の枝が揺れていた。芦田広季は、定食屋から出てくるなり花びら交じりの風を浴びた。
大阪・桜ノ宮。
川沿いの桜並木へと吸い込まれるように歩いていく。
川から立ちのぼる生臭い匂いを阻止するために息を止めた。腐った青汁のような色をしたこの川を可憐な桜が包み込むように咲いている。
広季は人目も気にせずジャンプして桜の枝に触れてみた。着地するなりベルトの上の贅肉がぶるんと揺れる。情けなくなったのは言うまでもない。
胸ポケットに入れたスマホが震えた。
「はい、芦田です」
「お疲れ様です。福井です」
秘書の福井玲子からだった。年齢は35歳で広季より10歳年下だ。広季が入社15年目の若さで不動産会社の役員になった7年前からそばで働いている。1年前に大学時代の同級生と結婚し、現在妊娠6ヶ月だ。体調が不安定であるため、少し早いが近々産休に入る予定だった。
今日は、福井の産休中に業務を代わりに遂行してくれる派遣スタッフとの面接が午後から入っていた。
「もうすぐ戻るよ」
「はい。ピュアフルスタッフ様2名様を第3応接室にご案内しております」
「わかった。そのまま、応接室へ行くよ。5分くらいで戻るから」
「かしこまりました。失礼します」
愛想のなさは母親になっても変わらなかった。だからこそ、近くにいてもふたりの間に何も起こらなかったのかもしれない。胸ポケットにスマホを仕舞いこむと、芦田は走り出した。
第3応接室へ入ると、上座の席にいたスーツ姿の男女二人が立ち上がった。
「どうもお待たせしてすみません。どうぞ、おかけください」
タオルハンカチで汗を拭いながら、広季は二人の顔を見た。男の方は以前にも会ったことがあった。ピュアフルスタッフという派遣会社の営業マンで初芝と言った。年のころは30歳前後といったところだろうか。ツーブロックのヘアスタイルに黒ぶち眼鏡という今時の青年だった。
広季はこのところ同じような見かけの営業マンに何人も会っていた。年のせいか、誰が誰なのかわからなくなることが多い。できるだけほくろの位置などで覚えるようにしている。初芝には口もとに二つほくろがあった。
「お忙しいところすみません。さっそくですが、弊社のスタッフを紹介させていただきます」
初芝は隣にいる女性を見てうなずいた。
「市川紗雪と申します」
ショートヘアのその女性は広季に向かって口角を上げた。
「こちらがスキルシートになります」
初芝が出してきたスキルシートを広季は手に取った。年齢の項目に目がいく。40歳だった。口角を上げたままの紗雪を広季はちらりと見た。肌はつるりとして髪はツヤツヤとしていた。30歳くらいにしか見えなかった。
「こちらのスキルシートにあるように、市川さんに秘書の経験はありませんが、事務や営業など多岐に渡る経験があるのでその点はカバーできると思います」
初芝は再び紗雪の方を見た。
「はい」
紗雪は背筋を伸ばして広季の目を見た。広季は思わずそらしてしまった。
「エクセル、ワードは使えるようですね。パワーポイントも使えますか」
「はい。基礎的な感じですけど」
照れるように首を傾げながら紗雪は微笑んだ。広季は紗雪の左手薬指に目をやった。指輪は無かった。
「大丈夫ですかね」
初芝が作り笑顔で訊いてくる。
「まあ、うちの秘書の業務は一般事務とか営業事務とか、色んな事務の仕事を少しずつ集めたみたいな感じだから、市川さんのご経験でたぶん問題なく仕事してもらえると思いますよ」
広季は椅子の背もたれに体を預け、ネクタイを緩めた。ダイエットのつもりで走ってきたが、暑くて仕方が無かった。会議室のエアコンはまだ暖房にセットされているようだった。
「エアコン、冷房に変えますね」
紗雪はすっと立ち上がると、壁に掛けてあるリモコンを操作した。
「すみません」
焦った広季の首筋から汗が流れた。
「今日、少し蒸し暑いですもんね」
胸元を手であおぐ振りをして優しく微笑む姿に、広季の顔が緩んだ。
「市川さんから質問はありますか?」
着席した紗雪に初芝が訊いた。
「いいえ。私からは特に」
「芦田さんは」
「私も特にありませんよ」
「承知しました。でしたら、今日はこれまでということで」
「はい、どうも、ありがとうございました」
広季が席を立つと、二人も後に続いた。
二人が帰った後、広季は自分の役員室へと戻った。福井がいた。お腹をさすりながら、窓の外を眺めている。
「どうでしたか」
広季はスキルシートを無言で渡した。
「せや、福井さんにも会ってもらえばよかった」
ジャケットをハンガーにかけながら、広季は大きな声で悔しがった。
「そうですよ。引継ぎするの、私なんですから。まあ、いいですけど」
福井はスキルシートに目を落とした。
「どう?」
広季は自分の席から福井の様子を伺った。
「いいんじゃないですか。いつから来てもらいます?」
「福井さんの都合のいい時で」
「じゃあ、来週から」
「わかった。初芝さんにそう伝えて」
「承知しました」
福井はスキルシートを広季の机に載せた。
「あっちに断られたりして」
部屋を出る間際、福井は広季をからかった。
「そうやなあ。そういうこともあるなあ」
ぱたりとドアが閉まると、広季はやけに寂しくなった。
人に嫌われることには慣れているつもりでいる。
営業畑でいる頃は、一番になるため空気を読まず必死で働いた。結果を出すごとに同期からは嫌われたが気にも留めなかった。ひがむ人間など相手にしている時間はない。
家庭を顧みず、妻の美里や娘の可南に去られた時も気にしなかった。まだ30代半ばだったので、モテる気がしていたのだ。
だが、役員まで昇りつめ、太り始めたあたりから少しずつ自信が失われてきていた。
「何暗い顔してんねん」
顔を上げるとそこには、若いころの自分がいた。
1年ほど前から不意に現れる20代後半くらいの自分だ。スリムで自信に満ちていい匂いがする。
いつも初めて梅田の百貨店でオーダーメイドをした紺色に白の細いストライプが入った三つ揃えのスーツを着ている。今の広季の体形ではそのスーツを着ることはもう叶わない。広季は彼を「スリム」と呼んでいる。
「またお前か。会社に来るな言うたやろ」
「ふーん、どれどれ」
スリムは机の上に置かれたスキルシートを手にした。
「40歳!おばはんやん」
「やかまし!俺かておっさんや。つまり、お前もおっさんや」
大げさにのけぞるスリムを広季は制した。
「俺は永遠の27歳やからお前とは違うねん。ふーん。色んな仕事してきてるんや。この人、採用するん?」
「そのつもりやけど、向こうがどういうか…」
「何や、そんな自信のない態度。胸を張れ、腹出さんと!」
「うっさい、はよ消え」
スリムは小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、姿を消した。スキルシートがはらりと机の上に落ちた。広季は腹をさすり、紗雪の姿を思い出し、ため息をついた。
紗雪は決して美人ではなかったし、スタイルがいいわけでもなかった。スキルだって特別すごいわけではない。年齢的に言ってももう少しがんばって資格でも取っていればいいのにと思うほど平凡だ。
「断られたら嫌やな」
広季は窓の外の桜並木を見て、ひとりごちた。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?