小説練習帳 ショートショート さかさま

上司で同期の山田隆にリストラを言い渡された時、梶浦咲子は自分の足が宙に浮いた気がした。
新卒で入社して20年。
まさかこんな未来が待っていたとは。
40を過ぎて再就職先がすぐ見つかるとは思えない。見つかったところで、今と同じような給料は望めないだろう。
だいたい世渡りが上手いだけで出世した同期の山田にリストラを言い渡された事実に腹が立って仕方がなかった。
トップセールスパーソンの私がなぜリストラされなければならないのだ。
切られて当然の人間がもっといるだろうに。
腹を立てたところでリストラされるのは決まっているので何も変わらない。怒っては冷静になる。発火と鎮火が咲子の胸の中で繰り返されていた。

こんなことになるなら、好きなことをして生きればよかった。
大学時代に夢中になった歌とダンスを続けていれば良かった。
今頃ミュージカルスターになっていたかもしれない。
ちゃんとした社会人になれと言った両親の言うことなんか聞かなければ良かったのだ。
何でこんな、望んだ人生とはさかさまの道をあるいているのだろう。
咲子は現実逃避から、自分はミュージカルスターだと念じながら眠ることを習慣化するようになった。

だからといって、ミュージカルスターになった夢を見ることはなかった。
いつものように朝が来て、スーツで身を固め外回りをするだけだった。
ある朝、咲子は駅の中に置かれているピアノの前で目を閉じて座っている高齢の男性を見かけた。
男性は厳かにピアノを弾き始めた。
咲子の体の隅々まで音色が響いてくる。
体中が熱くなり、痺れてきた。
熱を放たなければ!
咲子は、営業カバンを放り投げ、歌い踊り始めた。道行く人々は足を止め、スマホで咲子を撮影し始める。
人に見られるほどに咲子は高揚した。
私を見て!私の歌を聞いて!
ピアノの演奏が終わると、男性は静かに去っていった。
我に返った咲子は営業カバンを拾い上げ、会社へ向かった。
歩き出す咲子に惜しみない拍手がギャラリーから送られる。

その日を皮切りに、何かしらの生演奏を聞くと咲子は歌い踊りだすようになった。
駅前のギター弾き語り、通りがかった学校の教室から聞こえるピアノと合唱、子供のリコーダー。
最初は、開放感に包まれ楽しんでいたものの、やがて恥ずかしくなってきた。

ある日、大学時代の友達である由里子から久々にLINEが来た。
「凄いね!話題になっているよ!これ、咲子だよね!」
送られてきた動画には、子供のリコーダーに合わせて踊る咲子がいた。
コメント欄には「下手くそ」「狂女」「子供可哀想」など誹謗中傷が散乱していたが、咲子が気になったのはそれではなかった。
自分の歌とダンスが想像よりもかなり下手だったのである。
「これは私じゃないよ。似た人もいるものね」
咲子は、由里子に返信した。
「さかさまなのはこちらのほうだったみたいね」
咲子は、動画を何度も見て念じるようにつぶやいた。
その日から生演奏と出会っても歌い踊ることはなくなった。

リストラされる日も近い。
咲子は、冷静になって転職活動に励もうと思っていた。
営業周りの途中、駅のホームで電車を待っている時だった。
取引先の社長からスマホに電話がかかってきた。
「梶浦さん、やめるって本当?」
「そうなんです。今までありがとうございました」
「良かったらさ、うちに来ない?前から引き抜きたいって思っていたんだよね」
咲子は、今こそ歌い踊りたいと思った。






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