家族間の小競り合いから見る「自分の許し方」の話
プロローグ
先日祖母とごはんを食べに行くことになり、家族総出で出かけました。
祖母の住むアパート近くにある駐車場に車を停め、そこから祖母に連絡。どこに行くか決まっていなかったのでお互いに国道沿いに歩いて途中でおちあうことに。
しかしその後祖母と出会うことがないまま祖母の住むアパートまで到着。
電話をかけてアパートの下にいるというと「なにをしてるの!歩いていくからと言ったじゃない!家の裏の道を通ってもう駐車場の手前まで来てる!」と怒鳴られました。
思わずムッとして「お互いが歩くことになってたでしょ?国道を歩くからっていうのも伝えたのに!」とこちらも強めに返答。その後祖母がいるところでの集合になりました。
もともと祖母は人の話を聞かない人で、それが原因で家族以外ともめることもありました。なので私とのやりとりで駐車場に着いたことは聞いていましたが、あとは生返事状態だったんです。
いきなり怒鳴られてついこちらも強い口調で返してしまいましたが、娘や孫である母と私にとっては「むかつくけどいつものこと」でした。
おいうちのイラつき
この電話でのやりとりの最中に夫が私に「もう一つの国道を通ったんじゃないの?」と強めの口調で言いました。
私達が通った大きい国道、祖母の通った裏道、そして中央線もないような細い旧国道が並んでいるのですが、その旧国道を行ったんじゃないか?と言うことです。
自分の伝え方が悪いと言われたように感じた私はそこでもまた少し強い口調で「こっちの国道って言ってあるから!おばあちゃんが歩いたのもそっちじゃないし」と返答。
私の中にモヤモヤが立ち込めました。
飛び火するイラつき
祖母が人の話を聞かないのはもう性格だと思っているものの、怒鳴られたことと、つい先日まで半年以上同居していた私としては「また?」という感情も手伝って言い返すという結果につながりました。
夫からすれば「行き違いがあっただけでいきなり妻がおばあちゃんを強い口調で責め立てている」ように見えたと思います。
とても単純ですが夫は「間違いがないようにどちらの国道か指定した会話」も「祖母の怒鳴り声」も聞いていなかったし、帰りが遅いため「同居期間中の祖母の自由な行動」を体験するということもなかったからです。夫にとっては私がイライラするところも含めて「いつものこと」ではなかったんですね。
この瞬間は「その前のやりとりも知らないのに!」と夫に憤慨しましたが、まったくそのとおりで夫は「その前のやりとりを知らない」んです。
私は「あーでこーでこういう背景があるのに!!」という気持ちでいっぱいでしたが、夫には「妻のそういった背景を知らない」という背景があるんです。
イラつきの行方
「夫は知らないんだからしょうがないよね」「おばあちゃんのそういうところも知らないんだし」
それが私の落としどころになりました。
夫が「おばあちゃん話半分に聞いてたんだね」なんて共感してくれたら「そうなんだよーここまで歩かせることになっちゃってごめんね」と言えたかもしれません。ですが祖母と私のやりとりというのはやはりあくまで私達二人の間の出来事であり、夫には関係のないことです。冷たいようですが、夫が私に寄り添い、見えない背景を想像しながら共感する義務はありません。
仮に夫が何かしらで不機嫌な状態になったら私はとても不快になります。夫も同じく、(夫からすれば)突然不機嫌になった妻というのは不快でしょうし負担にもなるはずです。不機嫌というのは自分以外のだれかに向かっていくからです。
夫のそういった不快感を否定しないと同時に私の不快感も否定しないようにしています。開き直りともいいますね(笑)
「ちゃんと説明したのに、と思うのは仕方ないこと」「いきなり怒鳴られてムッとするのも当然の反応」
こうして自分を許すことで他人を許し、他人を許すことで自分を許しています。
なんなら祖母も「歩いてそっちに行くと言っていたのに勝手に動いてすれ違いになった」と思っているはず。誰しもが何かしらの背景を抱えています。
あえて近づいてみる方法
あくまで「私はこうする」という話ですし、ことによっては「絶対に許さん!!」というときだってあります。
そのイライラや憤慨をなかなか手放せないときもあります。ですが、憤慨し続けるというのは気力を使います。
そうして憤慨することに疲れてしまったときにそれを手放すチャンスが訪れています。そのときに少し想像力を働かせてみて相手にも背景があったというのを考えてみてください。善悪や正誤の判断は必要ありません。少し想像するだけで気力を奪われていた憤慨を手放すヒントが見つかるかもしれません。
自分の気持ち、相手の状況を受け入れる余裕ができたときに「少し想像してみる」という方法を思い出して、試してみてくださいね。
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