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集団遊び苦手選手権!全敗の理由

小学生の時、私には苦手な遊びがいくつもあった。クラスでやる集団ゲームなんて、楽しいはずなのに、なぜかいつも引っかかっていた。それは、『はないちもんめ』『椅子取りゲーム』『ドッジボール』、そして『ケイドロ』。いや、4つも苦手ってさすがに多くない?!って思うかもしれないけど、ひとつひとつ、ちゃんと苦手な理由がある。

まず、一つ目の『はないちもんめ』。あのゲーム、なんで選ばれない子が出るシステムなんだろう。子供心にも、選ばれなかった子の気持ちがチクチク痛むし、あえてあまり目立たない子を選んだ時の「なんであの子?」的なクラスの微妙な沈黙にいたたまれなくなる。しかも勝っても負けても、正直どっちでも良くない?って思ってた。歌いながら「勝〜ってうれしい、は〜ないちもんめ♪」とか言うけど、勝っても嬉しくないし、負けても悔しくない。私には、はないちもんめの喜怒哀楽がまったく分からなかった。

次に、『椅子取りゲーム』。あれは何が怖いって、椅子を奪い合うクラスの子たちの顔。必死すぎて怖いんですけど~!!私はどうしても必死になれないタイプだったから、なんでこんな椅子一つで命がけなんだろうって冷静に見ちゃっていた。でも、そのせいで毎回椅子に座れず、ちょっとずつ「もしかして私、嫌われてる?」って被害妄想に陥る。結局、椅子取りゲーム=地獄の時間、となりました。お願いだから、そんなにイスを減らさないでください…。

三つ目、『ドッジボール』。これに関しては理不尽過ぎる。理由は三つ。まず、ボールが硬い。あんなの当てられたら痛いに決まってる。次に、硬いくせにやたら跳ねるから、逃げても避けられない。そして人に向かってボールを投げるという行為が謎。なぜ人に当てなきゃいけないの?しかも、当てた側の得意げな顔が納得いかない。それが全然楽しくなくて、私はただボールに怯えていた。

最後に、『ケイドロ』。私、単純に走るのが遅いんです。だから、警察でも泥棒でも、結局捕まるか走り回るかで、どっちにしてもしんどい。でも、泥棒側で一度捕まれば、あとはゆっくり休めるんじゃない?って甘く考えてたら、正義感に燃えた優しい子たちがすぐに助けに来ちゃうんです。結果、永遠に走り続ける羽目になる…。休み時間が終わるまで、私は一体何と戦っていたんだろうか。


遊びが楽しめなかった理由


こうして思い返すと、私の子供時代は「遊び」が全然楽しくなかった。むしろ、どうしてみんなこんなに必死になれるんだろう?楽しめない私はおかしいのかな?って戸惑ってばかりだった。でも大人になった今、やっと気付いたことがある。


それは、子どもの頃から「集団」とか「勝ち負け」に対して疑問を持つ感覚って、実は自分を守る大切な視点だったんじゃないかってこと。みんなが「楽しい!」と思っていることに疑問を抱いてしまうのは、何か別の視点で世界を見ているからなのかも知れないと思った。そうやって感じた違和感こそ、自分らしさの根っこだと、ようやく今になって思う。

あの頃、私は集団の勝ち負けのある遊びが苦手だった。
でも、あの感覚が今の自分を作ってくれている気がする。
「なんでこれやるんだろう?」って思いながらも、周りに合わせようと必死だった私。でも今なら言える。
自分の価値観を受け入れることを恐れちゃいけない。
自分が思ったことや感じたことを伝えて、それをもし誰かに否定されたとしても、正直そんな事はどうだって良くて。
それ以上に、自分の感覚や思いに嘘をついて必死で合わせていくのはしんどいし、自分を受け入れて素直になれた時、初めて自分というものが出来上がっていく。

昔は人と違うことが怖かったし、何だか仲間外れのような気がしていた。
でも今は人と違うことは個性であり私らしさだと思っている。

だからこそ、人と違うことを引け目に感じてしまっている子どもたちはきっと今の時代も多いんじゃないかって思うけど、、
一人一人違っているからこそ、誰かの個性がより一層輝いて見えたり、お互いに心惹かれるものがあって、仲良くなれたりもするわけで。今必死にもがいて生きてる子どもたちが、自分の感覚や個性を精一杯大切にしながら生きて欲しいなぁとふと思った。

  

   
                             No.4

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