ライト文芸という世界と私

私自身がライト文芸作品を書いている以上、ある程度の作品を読んできましたし、自分で書いているうちに色々得られたことがあります。今回はそれらについて少し話してみようかなと思います。

そう言ったものの、実は私がライト文芸作品を書き始めたとき、私自身が読んだライト文芸作品の数はほぼゼロに等しい状態でした。それまでの私は推理小説や星新一のショートショート、朝井リョウや石田衣良などの作品を読んでばかりいました。ただ唯一、前にも話した茶番劇作家さんだけは追いかけていました。そして、当時の私は筆を執るつもりはあまりなかったのです。

しかし、2019年の夏にとある事件が起こりました。いや、正確には事件はすでに起こっていたのです。
私自身に病気があるということがわかったのです。その時は何かを考えることもできず、ただ無駄に時間を過ごすことの恐怖からとにかく楽しく生きようとしていました。その頃に茶番劇の中で当時の私の境遇に似た作品を見出したのです。それを見て、私なりの物語を残してみたいと考えて筆を執ったのです。

病気と恋愛、そして生きる意味という私が書きたかったテーマをふんだんに取り込んだ作品が「あの七夕の日を忘れない」です。そして、その作品を書いている中で、あのような作品はライト文芸という分野に所属しているということを知りました。読みやすい文体で描かれた文芸小説という、私が書きたいと思える要素が揃ったジャンルを発見した私は、心酔したようにライト文芸の作品を読み漁りました。特に死、病気にまつわる作品を読みふけりました。

長々と私の話をしてしまいましたが、ライト文芸という分野について私が考えていることは次のようなものです。
ライト文芸は小さな世界の小さな物語。これが最も適した言葉だと思います。
小さな物語というのは、リオタールの言うような社会的に与えられた大義を語る大きな物語に対比した、個人的な物語のことを差していると考えてください。決してライト文芸に対する批判ではないのです。
家族や友人、部活動などの小さな集団の中で動く個人的な物語というのは、本来特殊性が高い分共感を得にくいように思えてしまいます。しかしながら、ライト文芸はその独特なよみやすさと現代の社会問題を通じて読者に対して訴えかけてくるジャンルなのだと考えています。
このライト文芸という世界にある種の期待と希望をいだいています。現代は「私らしさ」を押し付けられていると感じます。そして、ネットワークを介して誰とでも繋がれる反面、誰とも本心から関わり合うことのできない孤独感に悩まされます。この現代の問題に対して、このライト文芸はある種の癒やしと解決策を提示してくれると信じているのです。

つまり、私は現代の社会的問題に対してライト文芸がその内面的解決に一躍買ってくれるような気がしているのです。そんなライト文芸の可能性の一部になれたら嬉しいと思いながら、今日も筆を執ります。



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