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サエキけんぞうのコアトークvol.91「なぎら健壱と高田渡を語る」イベントレポート ④ 高田渡、その老成とユーモアの影に


開催日:2021年3月31日(水)
会場 :LOFT9 Shibuya

3月31日、渋谷のLOFT9にて行われた「サエキけんぞうのコアトークVol.91」レポートの最後、4回目です。サエキさん、そしてゲストとして登壇した『高田渡に会いに行く』の著者、なぎら健壱さんの尽きることないフォーク談義の続きをお楽しみください。 

高田渡の家族と育った環境

サエキ (高田渡さんの父親の)高田豊さんは最初の結婚において、芸者の身請けをします。それで、当然と言っちゃあれですけど、数年後に破局してしまいます。その後、いろんな事業をして、1939年に祇園近くの酒屋の娘、吉田信子さんと結婚されましてですね、1940年驍(たけし)さん、1942年蕃(しげる)さん、1946年に烈(いさお)さん、1949年に渡さんが生まれる。最初は壁紙売りをされて成功するんですけど、その後、マージャンクラブをされ、そして養鶏を営みます。 渡さんが未熟児で生まれて母乳を受け付けないから、ヤギの乳を与えるとごくごくと飲んで助かった。そこで、ヤギ乳の販売をして成功します。でもヤギの乳だといまひとつ立ちゆかないので、牛乳販売をされます。平行してパチンコ店に場所を貸します。芸者就労のあっせん業もされます。そして保育園を開園。高田豊さんには、これだけのすごい商才があった。戦後はそういう時代だった、誰もがチャンスがあった時代なのかもしれませんが。
 そして、1950年に町長選に立候補されますが敗れ、51年に町会議員になる。しかし、57年にそれらを全て支えていた吉田信子さんが亡くなってしまいます。当時渡さんは8歳。そして、それを期に東京に出られます。

なぎら そこからでよかったと思います。

サエキ すみません。きょうはこれを全部言いたかったんです。上京して武蔵小山のアパートに来ました。しかしその数ヶ月後、目黒不動のラーメン屋の2階に引っ越します。その後も練馬区港町に引っ越しますが、数ヶ月で夜逃げのようなかたちで引っ越されます。そしていいですか、ここからです。お話し、聞いててくださるとうれしいです。
 1958年5月、巣鴨困窮者相談所に行きまして、上野公園内の難民収容所に、息子4人とお父さまが引っ越されます。この上野難民収容所、すごいヤバい所で、そこでヤバい生活を送ったのち、塩崎町の塩崎荘という所に引っ越す。要するに洲崎パラダイス、洲崎市っていうことですね。ここがすごい所だったということが、この本(『高田渡に会いに行く』)に書いてあります。そこの説明をお願いしたいんですが。

なぎら 母子寮じゃなくて父子寮。お母さんが亡くなりましたもので、そこに移ります。こんなことあるのかと思いますけど、聞いた話では例えば、6畳という間がありました。そこを二つに分けて3畳、3畳っていうのは聞いたことありますけども、さらに上下に割って、もう2部屋。

サエキ 僕はこの本で初めてその話を知りまして、本当に驚いた。つまり、高田さんはご自身のあらゆることをMCのネタにされますけど、その話をされたことはないんですよ。

なぎら 触れなかったですよ。それからまた江東区の塩浜に引っ越す。浜園という所と塩崎という所が一緒になったから塩浜。昔の国鉄スワローズ(野球チーム)の練習場がそばにありましてね。

サエキ スワローズの練習場があったんですね、これも書いてありますね。

なぎら 今もありますけど、中央自動車教習所がありまして、そのそばにあったんですけども、当時はひどい所でした。じつはあたし、昔そこに住んでたんですよ。それであたし、持ってるんですけどね、名簿を。写真撮っただけですけどね。

サエキ すみません、名簿って何ですか。

なぎら そこの父子寮の。高田一家のも載ってまして。

サエキ すごいですね。

なぎら お父さんの職業、人夫って書いてありましたね。

サエキ 人夫。

なぎら だから、工事関係のことをやってたんでしょうね。そこにいて、次の年には一番上のあんちゃんはもういなくなってましたね。

サエキ 驍(たけし)さん。

なぎら 渡以外の3人の兄弟の方は、全員読めませんよね。

サエキ そうなんです、ものすごい難しい字で。

なぎら こんな字、見たことない。それで、また近くに越しましてですね、その後、武蔵野のほうに引っ越すわけですね。それから高田さんは終生、三鷹のほうにずっといたっていうことです。

サエキ そうなんですね。1958年に深川の塩崎町に行った後、59年には日の出荘という、ちょっといい所に引っ越されたということですよね。それで、3年後の1962年に三鷹に引っ越され、その後67年にお父さまが亡くなられると。

なぎら 高田渡さんは小さかったからわからなかったかもしれないけど、あんちゃんたちはお父さんの苦労を見てきたと思います。一番多感な時期に渡さんがそういう所にいたということが、後の何かになってるんじゃなかろうかなと思いますね。お母さんが早く亡くなったことが高田渡さんのいろいろなことに影響あったんじゃなかろうか、ということを分析した人がいたもので、烈(いさお)さんにそれを聞いたら、「そんなことはない」と。ただ、「渡が早く結婚したのはそれが影響しているのかもしれない」とはおっしゃってましたけどね。

サエキ 私はこの本を読ませていただいたときに確信を得たことがございます。お父さま豊さんと、息子さんたち4人が5人で4畳。しかも上下だから、1m50cm、つまり身をすぼめないと入れない高さのところに住んでいた。それを聞いたとき、高田渡さんの歌の本質が伝わってきたような気がしちゃった。はっぴいえんどとも、岡林信康とも、その他のミュージシャンたちとも全然違う、高田渡さんならではのアメリカのカントリー・ミュージック、ブルースをそしゃくして、それをわれわれにブラック・ジョークのようにして伝える、リズム感も含めた魅力の源泉というものが、わかっちゃったような気がしたんです。

なぎら あたしはそれを分析したことはないし、考えてもなかったんだけども、そうかもしれないですね。

サエキ 僕にとっては、今日それを話すってことが、ひとつのポイントではあったんですけど。要するに文章では伝えきれない部分ではありますね。海外の偉大なミュージシャンたち、ミック・ジャガーにしろ、ポール・マッカートニーにしろ、ジョン・レノンにしろ、あの人たちは全部、爆弾が落ちてる所で生まれた人たちなんです。爆弾が落ちてるときに生まれたロックスターと、その後、爆弾が落ちなくなったときに生まれたイギリスのミュージシャンたちとでは“味わいが違う”といわれてるんですよ。こんなのは与太話だと思って聞いていただければいいんですけども、僕はね、割とそういうの、あると思っております。
 高田さんにおける、あの尋常ならざる変な落ち着きと、妙なウイット、それが一体、何なのかっていうことは、長年もやもやしながら聴いてたんですけど、合点がいってしまったんです、この本を読んで。

なぎら なるほど。

サエキ だから、インタビューを申し入れたんですよ。


高田渡との縁


なぎら
 この本さ、2段組みでしょ。細かい字でしょ。

サエキ はい。

なぎら そうしないで普通にすれば、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也著 新潮社 2011年)くらいの厚さの本になったのにね(笑)。もしくは京極(夏彦)さんの本みたいになっちゃうね。

サエキ 330ページあるんです、これでも。だから、600ページぐらいの本になっちゃったってことですね。……ヤバいですね、もう1時間40分たっちゃったんですね。人間の集中力、限界があるんですよ。だから、少しリラックスしないと。

なぎら 一発、歌っとく?

サエキ そうですね。

なぎら 歌うか。

サエキ すみません、お願いします。

なぎら どうでもいいんですけどね、医者が「酒を飲むんなら同量の水を飲みなさい」って言うから、もうこんだけ飲んだんですよ。だから……膀胱、ぱんぱんですよ。

サエキ わかりました。歌ってから行きますか。

なぎら 全部弾くと長ったらしいから、半分ぐらい。

なぎら 
「♪ 地主金持ちはわがまま者で、役人なんぞは威張る者、こんな浮世へ生まれてきたが、わが身の不運と諦める。お前この世へ何しに来たか、税や利息を払うため、こんな浮世へ生まれてきたが、わが身の不運と諦める。苦しかろうがまた辛かろが、義務は尽くさにゃならぬもの、権利なんぞを欲しがることは、できぬものだと諦める。借りたお金は催促されて、貸したお金は取れぬもの、どうせ浮世はこうしたものと、わたしゃいつでも諦める。長いものには巻かれてしまえ、泣く子と資本家にゃ勝てやせぬ、貧乏は不運で病気は不幸、時よ時節と、諦める。諦めなされよ、諦めなされ、諦めなさるが無事であろう、わたしゃ自由の動物だから、諦めきれぬと、諦める~」
(「あきらめ節」『高田渡/五つの赤い風船』(URCレコード 1969年)収録)

サエキ いえーい、なぎら健壱~!

なぎら 「あきらめ節」というね、これも外国の曲ですね。

サエキ 素晴らしいです。ここであらためて、なぎらさんのご紹介をしたいんですけれども、高田渡さんが「俺の代わりになるのはなぎらしかいない」とおっしゃったとか。

なぎら あれはね、うれしかったですね。高田さんが最初に病院に入ったときに、「なぎらは全部知ってるから、俺の代わりにいるから」って言ってくれたときは、あたし、それはうれしかったですね。

サエキ 本当にねえ、もうそのとおり。そして、高田渡さんとなぎら健壱さんは妙な縁でつながっていて。高田渡さんの命日は、なぎらさんの誕生日、なんですよね。

なぎら 失礼でしょ? 「なぎら、俺の亡くなった日を忘れるなよ」と言ってると思うんですけどね。

サエキ しかも、なぎらさんのおじさんに高田渡っていう人がいらっしゃると?

なぎら 最初に見たときに、なんかあるなぁと……。うちの母方の旧姓が高田で、母の弟が渡なんです。高田渡なんです。

サエキ ……なぎらさん、休憩していただいて結構ですよ。

―なぎら健壱さん、休憩に入る―

サエキ なぎらさん戻られました。黒ビール、もう一杯ね。僕も飲みます。もう終わります。もうね、これ以上話してると頭がパンクしちゃうからね。

なぎら ちょっと待ってよ。

サエキ あとはゆっくり話して、終わりにします。ゆっくりとね。

なぎら ちょっと待って。

サエキ はい?

なぎら ほとんど話してませんよ。本読んでいただければいいんですけども。

サエキ まず本を買っていただいて、帰っていただく。そうするとね、きっとまた話聞きたくなる。今日はね、高田渡さんの前転でしたっけ?

なぎら 飛び込み前転ですか?

サエキ 飛び込み前転して、“じょりじょりじょりじょり”ってとこで、僕はそこで満足しちゃいました。そういう臨場感を感じたいんです。だけどもうね、ビール4杯目になってくると、臨場感が少し削れてきちゃいますね。

なぎら 私は削れてません。

サエキ そうですか。5時間しゃべる予定……。

なぎら びしっとしてます。

サエキ  今の若いやつは駄目なんですよ。

人間、高田渡の魅力とは


なぎら
 だからね、今日は全然そこに触れてませんけど、魅力的な人でしたよ、高田渡さん。

サエキ 高田さんは魅力的な方なんです。

なぎら そうです。でね、最初に言ったけど、皆、負の部分を言わないんですよ。書かないんですよ。

サエキ 負の部分を言ったときに、すごい心つかまれる。

なぎら そう、だから、それが必要なのに、聖人君子みたいにしちゃったら、違うんですよね。

サエキ 聖人君子じゃないでしょ、聖人君子じゃない。

なぎら じゃないんですよ。だから、そこの部分に触れないと、本質が見えてこないってことを言いたかったんですけども。

サエキ そういう意味では、この本は素晴らしくバランスが取れてる。高田さんの負の部分、すごいっすよね。

なぎら だからね、そこを皆避けようとしてるんだけど、避けちゃいけないのよ。そうすると本人が見えてこない気がしてね。この本にも書いてるんだけど、ステージで寝る話にしても、高田さんは「なぎら君がそういうことをね、いつもステージで寝るって言ってるけども、それはないわけじゃないんだけども、そんな1、2回のことをどうのこうの……」って言ってる。

サエキ 僕、高田渡とコアトーク、2000年ぐらいに行いました。渡さん、ちゃんと寝ました。期待を裏切らないし、芸だなと思いましたね。どうなんですか? 芸なんですか、あれは。

なぎら 芸じゃないですよ。

サエキ 芸じゃない。

なぎら 「げえ」です。

サエキ げろ吐かれましたね。高田渡さんのゲロの話、お願いします。

なぎら やだよ、そんなの!

サエキ やですか。だって、「ううっ」ていう、そこは。

なぎら いや、寝る話だったらまだいい。

サエキ マイクに向かってこうやって吐くんですか。

なぎら あれは違う、あれは漣(高田漣)が言ってるんだから。

サエキ 漣さん。コアトークのときはそんなに飲んでないから、寝はしたけど、げろは吐いてない。

なぎら それで、寝ちゃうのね。それが「1、2回しかないのに、なぎら君は大げさに言う」っていうの。それを本気で言ってたら、私はそれが高田渡の悲劇だと思うんですよ。覚えてないっていう悲劇ですよ。また次に同じことやっても、覚えてないんならいいっていう……これはね、大変なマイナスの面なんですよ。

サエキ そうですね。

なぎら だから、それ、分かってて「俺、毎回寝るんだよ」っていうのと、「寝た? 俺が?」っていうのは全然、違うからね。

サエキ 違いますね。でも、そういう人ですね。

なぎら いや、そういう人なんですよ。

サエキ すみません、マジの質問ですけど、いいですか?

なぎら 今までマジじゃなかったのか。

サエキ いや(笑)、そうじゃなくてですね。高田さんとお友達だと、朝、電話がかかってくる。これは有名な話で、中川五郎さんなんかがよく言ってるんですけども、朝6時ぐらいにべろべろになった高田渡さんから電話かかってくると。なぎらさんもかかってくるんですか? これ一体、どういうこと? 先ほど、なぎらさんは朝5時まで……。

なぎら 「眠れない」って言ってました。

サエキ そう。

なぎら だから、朝5時、6時まで飲んでるならわかるけどもね、朝6時に酔っぱらうってことは、何時に飲み始めてるんだっていうことですよ。

サエキ そう。何なんですか、一体あれは。

なぎら 3時頃飲み始めないと無理でしょ。

サエキ 4時とかね。

なぎら 夜通しじゃないですからね。

サエキ 何なんですか、一体。

なぎら 夜っぴて飲むほど強くないですから、酒は。何なんだろうな、わからない。

サエキ でも。

なぎら ご陽気なんですよ、電話では。

サエキ 陽気なんですか。

なぎら それはそうです、酔っぱらってるんですから。

サエキ だって、朝6時ですよ。

なぎら 酔っぱらって、ご陽気ですよ、ご本人だけは。

サエキ ご陽気。

なぎら こっちはもう、いやでしょうがないですよ。早く切ってくれみたいな。

サエキ 朝6時だから、電話かかってきても困るでしょ。

なぎら 30分も40分も話しますからね。それで、本には書いてありますけども、大塚まさじのところに電話をしたら、本人がいなかった。旅かなんか行っててね。奥さんが代わりに出て、いつものとおりにいろいろ戯れ話をしていた。しばらくすると、渡さんが止まっちゃったと。寝ちゃったのかなと思って「渡さん?」って呼んだら「はい。今、考えていたんですけども」「何をですか」「私は誰に電話してるんですか?」。

―会場、爆笑―

サエキ 誰と話してるか分かんなくなっちゃったんですね。それが、高田渡さんの真骨頂というかですね。

なぎら そういうことです。それを覚えていればかわいいんだけど、「そんなことはない」って言い切るわけでしょ。そうすると、大塚まさじさんの奥さんが悪者になっちゃう(笑)。

サエキ そうですよ。そういう人の一番怖いとこはそこなんです。いつ自分にいつ矛先が回ってくるか分かんない。

なぎら そういうこと。

サエキ なぎらさんもそういう怖い目に遭ってるでしょ?

なぎら あたしは割合、要領よくやって……。

サエキ なぎらさんは要領いいんですよね。

なぎら そうです。

サエキ 被害に遭ってるのは中川五郎さんですか。

なぎら いっぱいいると思いますよ。佐久間順平さんとか。

サエキ 佐久間順平さんは相当、耐え忍んでるだろうことがですね、どこにも書いてないんだけど伝わってくるんです。
 よく知られている息子の漣さんのエピソードですが、吉祥寺の駅前で朝6時、嘔吐してるお父さんを見つけたんだそうです。それで「しょうがねえな、おやじ」と思って、嘔吐をしてるところを背中さすってやった。そしたら、高田さんが何と言ったか。「どちらの方か存じませんが、ご親切にありがとうございます」(笑)。息子に向かって。

―会場 爆笑―

サエキ これは究極の親子でしょ、地球始まって以来。

なぎら すんげえなあ。あたし、同じような話知ってるんですけどね。たこ八郎さん、宮城県の生まれですね。亡くなっちゃった、たこ八郎さん。

サエキ 宅八郎?

なぎら たこ八郎。

サエキ たこ八郎さん、コメディアンのね。

なぎら もう亡くなって久しいですけど。

サエキ お二人とも亡くなりました。

なぎら たこ八郎さんが、あるとき実家へ帰ったと。ところが、あの人、パンチドランカーということもあって、自分のことがよく分からなくなることがあった。

サエキ 元ボクサーですよね。

なぎら それで、自分が何やってるか分からなくなっちゃったような状態で故郷へ帰ったんですね。でもどうしても自分の家が見つからない。それで植木の仕事をしているおじさんに、「すみませんけども、この辺に斉藤っていう家ありますか」って聞いたと。斉藤清作っていうのが本名ですからね。そしたら、そのおじさんが振り向いて、「ばか野郎、おまえのおやじだよ!」。

―会場 爆笑―

サエキ 今の話は親子返しですね。すみません、限界に近づいておりますんで、あと1曲で、今日は終わりにしませんか。ぜひ第二回もお願いします! 本日はありがとうございました! なぎら健壱さんに乾杯!

―なぎら健壱さん「告別式」を歌って、エンディング―

構成:こまくさWeb

プロフィール
なぎら健壱
…フォーク・シンガー、俳優、タレント、執筆家。1952年、東京都中央区銀座(旧木挽町)生まれ。1970年、第2回中津川フォーク・ジャンボリーに飛び入り参加したことがきっかけでデビュー。1972年、ソロアルバム『万年床』をリリースして現在に至るまで、数多くのアルバムを発売している。以後、音楽活動だけでなく、映画、ドラマ、テレビ、ラジオへの出演、新聞・雑誌の連載など幅広く活躍中。東京の下町とフォーク・ソングに造詣が深く、カメラ、自転車、街歩き、酒をはじめ、多彩な趣味を持つことでも知られる。1977年、『嗚呼! 花の応援団 役者やのォー』で日本映画大賞助演男優賞受賞。2009年、第25回淺草芸能大賞奨励賞授賞。代表曲に「葛飾にバッタを見た」、主な著書に『日本フォーク私的大全』(ちくま文庫)などがある。

サエキけんぞう…アーティスト、作詞家、プロデューサー。1958年、千葉県出身。徳島大学歯学部在学中の1980年、ハルメンズとしてデビュー。1986年にはパール兄弟で再デビュー。1985年~1992年頃まで歯科医師としての勤務経験ももつ。1990年代は作詞家、プロデューサーとして活動の場を広げ、沢田研二、モーニング娘。、サディスティック・ミカ・バンド他多数に提供。TV番組の司会、映画出演などでも活躍。大衆音楽を中心とした現代カルチャー全般や映画、マンガ、ファッション、クラブカルチャーなどに詳しく、新聞、雑誌などのメディアを中心に執筆も手がける。著書に『歯科医のロック』(角川書店)、『ロックとメディア社会』(新泉社)、『ロックの闘い1965-1985』(シンコーミュージック)などがある。


高田渡_379pix

『高田渡に会いに行く』
なぎら健壱 著
2021年1月18日 発売
四六判/並製 336ページ
ISBN 978-4-909646-35-4
定価(税込み) 2,750円(税込)

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