神仏探偵・本田不二雄が案内する 「TOKYO地霊WALK」 vol.7
お江戸の鬼門ラインに連なる
最恐&最強の守護神めぐり
ムクノキの古樹に祀られた疫病治癒の「元宮」
今回の起点は、最近リニューアルして改札の向きが変わったJR御茶ノ水駅・聖橋口。 まずは、横断歩道を渡ってすぐの場所へ。
崖地に立つ古樹の幹に「太田姫神社 元宮 旧名 一口神社」という札が掲げられ、その上に「太田姫稲荷神社神符」を納める神棚が据えられています。
何でしょうかコレ。通行人の多くが見逃すこの一画。いろいろ謎すぎます。
この木(ムクノキ)は太田姫神社の元宮とのこと。つまり、同神社(現在はここから徒歩7分の神田駿河台1丁目に鎮座)がかつてここにあった証なんですね。
由来をひもとくと、室町時代、江戸城を築いたことで知られる太田道灌の娘が疱瘡(天然痘)に罹り、京都の南にその治癒に霊験あらたかな神社(一口稲荷)があると聞き、道灌が快復祈願したところ、娘は快癒。その報謝として旧江戸城内に勧請(分霊)したのがはじまりといいます。
そして、徳川家康の江戸入府ののち神社は城外鬼門の神田川(外堀)のほとりに遷され、明治になって太田姫稲荷と改称。昭和6年(1931)、総武線拡張によって神社は駿河台に遷されたのち、その旧社地に「元宮」が残ったわけです。
ではなぜ元宮が残ったのか、どうしてこのムクノキだったのか。
理由があるとすれば、ここで疱瘡などの疫病平癒を祈った人々が無数にいて、この場とお稲荷さんの霊験の記憶が分かちがたく結びついていたからでしょう。
つまり、お社がなくなっても「ここじゃなくては」と思う人がいた(いる)という証なんですね。おそらくムクノキは旧社地の御神木で、稲荷神のヨリシロ(依り代)にして、祈願者のよりどころだったのでしょう。写真には宮司さんの手書きらしいお札(授与用)も見えます(直近の参拝ではありませんでしたが……)。
まさにホンダ言うところの地霊スポット。思いがけない「場の記憶」との出会いがここにありました。
孔子廟と築地塀が織りなす湯島の映えスポット
さて、聖橋を渡って湯島エリアに歩を進めましょう。
橋の欄干では平日の午後からカメラマンが複数スタンバイ。この橋から見える“渓谷”は、JR総武線と中央線、地下鉄丸の内線の3路線が交差する“撮り鉄”垂涎のスポットです。聞くところでは、10数分に一回はシャッターチャンスが訪れるそうです。
渡った先の右側にこんもりとした緑が見えます。「史跡・湯島聖堂」です。
階段を降りていくと、そこはまるで、時間が止まったかのような非日常の空間です。
まずは「杏壇」と掲げられた門をくぐり、黒塗りの大成殿(孔子廟)へ。儒教の始祖・孔子を祀る建物で、中には孔子および四賢(孟子、顔子、曾子、子思)の像が奉安されています(土・日・祝日は堂内を公開)。元禄3年(1690)の建立(現在の建物は1930年に再建)で、儒教を学問の中心とした江戸幕府は、ここを幕府直轄の学問所としたのですね。「日本の学校教育発祥の地」という掲示も見えます。
それにしても、寺でも神社でもない独特の意匠(デザイン)が印象的です。注目は屋根の上。大棟の両端には、龍頭魚尾で頭から水を噴き上げている「鬼犾頭」、下の猫っぽいのが「鬼龍子」といい、遠目ではわかりづらいですが、牙を剥き、腹には蛇や龍のような鱗があるお姿。近代建築の巨人・伊東忠太により江戸期(寛政年間)の意匠に倣って再建された堂々たる建造物です。
そして何より、この空間が魅力です。
入徳門まで石段を降りて、鬱蒼と木々に覆われた石畳の小径を築地塀沿いに進むと、突然巨大な孔子像があらわれます。世界一の像高(造立当初)を誇るこの像に、知恵向上と学問成就を祈りましょう。その奥には、医薬神と崇められる神農の異相像を祀る小堂(神農廟/毎年11月23日のみ一般公開)がひっそりと建っています。
江戸総鎮守と江戸最古の地主神が同居する場
湯島聖堂の真裏に鎮座するのが、「江戸総鎮守・神田明神(神田神社)」。緑青に覆われた大鳥居に迎えられた参道の奥に、朱色ベースの極彩色に彩られた随身門と、その奥に控える御神殿が見えてきます。
その発祥は、奈良時代の天平年間、出雲系の氏族が江戸の湾岸(武蔵国豊島郡芝崎/現在の大手町)に到来し、大国主命(大己貴命)を祀ったことにあるといわれ、伊勢神宮の御田(神田)があったことが名の由来とされます。
ですが、当社を江戸総鎮守たらしめたのは、平将門公を合祀するお社だったからにちがいありません。
ざっくりいえば、将門公の御霊は、平安朝の王権に反旗を翻し、滅ぼされてもなお坂東武者の祖として崇められた東国人のアイデンティティそのもの。戦国時代、江戸に拠点を構えた徳川家康は、関ヶ原の戦いにあたり、神田明神に戦勝祈願をして決戦に臨み、みごと天下分け目の決戦に勝利。天下統一を成し遂げたといわれています。
この由緒により、当社は将軍徳川家の崇敬を集め、江戸城の北東鬼門守護として現在地に遷されました。ここで頒布される「勝守」は、家康公の故事にあやかったお守りです。
なお、神田明神といえば、近年は人気アニメとのコラボが話題で、アキバ系やアニメ好き外国人の参詣者も多く、授与品や土産物が超充実のEDOCCO(神田明神文化交流館)も人気ですが、本稿では境内社のひとつ江戸神社に注目します。
江戸神社は、江戸最古(702年の創祀)の地主神といわれます。もとは現在の皇居内にあったとされますが、江戸時代に神田明神とともに現在地に遷されています。特大の神輿を社殿とするその仕様もユニークですが、ポイントは、スサノオ命=牛頭天王を祀る“古江戸由来”の荒ぶる神と「明神様」がセットで江戸城鬼門にあること。当社がパワースポットと呼ばれる隠れた理由がこのへんにもありそうです。
ちなみに、見逃せないのは本殿脇の資料館。将門公にちなんだ絵画資料が充実で、恐れられつつ愛された将門公の図像にざわざわさせられます(拝観料=大人500円)。
ヤマトタケル尊伝説の由緒地が湯島にあった!
神田明神から清水坂下に出て、少し上ると、右に妻戀神社の看板があらわれます。
一見して何てことない小さな神社ですが、由緒は古く、4世紀ごろ日本武尊が東征の折に行宮を営んだ跡に、里人らが尊とその妃・弟橘媛を祀ったことにはじまるそうです。なお、社名の由来はこう伝わっています。
――日本武尊が船で東京湾を渡るとき、ときならぬ暴風雨に見舞われ、弟橘媛は「私が身代わりになって、海神の心を鎮めましょう」と言い、海に身を投じた。還らぬ妃に、尊は「吾妻はや(わが妻よ、ああ)」と嘆いた(『古事記』より)。
つまり、妻を恋い慕う尊の思いが社名に託されているわけですね。
ちなみに、『江戸名所図会』には「往昔は社地も妻恋台の下にあり」とあり、現在の妻恋坂上ではなく、湯島の台地を下った場所に祀られていたようです。とすれば、そこは東京湾で遭難した尊が上陸した場所だったのか、などと想像が膨らみます。
それはともかく、当社は江戸時代に神君家康公より社地を寄進され、のちに火災を経て稲荷社(妻戀稲荷)のある現在地に遷されました。この妻戀稲荷、今こそ小さな境内社にすぎませんが、実は江戸時代には関東総司稲荷神社と称され、日本七稲荷のひとつに数えられていたというから驚きです。
いやはや、神社に歴史あり。それにしても、江戸城の鬼門といえば、神田明神や上野寛永寺ばかりが注目されますが、冒頭の疫病除けの一口稲荷、湯島聖堂および薬祖・神農の祀堂(真裏の築地塀越しに神田明神の鳥居が位置)、神田明神境内の江戸神社、その裏手(北側)にある妻戀神社と関東総司稲荷社、そして今回のゴール湯島天神……。
これらはすべて、寛永寺へとつづく江戸城の北東鬼門ライン上に点在しています。何やら意図的に集められたのではないかと思えるほどです。これは偶然でしょうか?
湯島は神々を祀る神聖な“シマ”だった
さて、ラストは天神様への一本道。古地図では「三組丁」と書かれた道です。
歩いていて気付かされるのは、道の右(東南東)側が急な下りになっていること。つまり、今回のルートは台地の際に沿ってつづいているのです。
『日本大百科全書』の「湯島」の項にはこうあります。
「山手台地の一つ本郷台地の南端(湯島台地)にあたり、侵食谷が入り込んで島の形状を示すことが地名の由来という」
江戸時代以前は、海から見るこの地が島のように見えたといいます。ではなぜ「湯」島なのか。諸説ありますが、興味深いのが「湯島は斎島で、神聖な島(場所)」とする説です(『東京の地名』筒井功)。ちなみに、「斎」には「神を祀る」の意味があります。
そんなわけ(?)で、湯島天神(湯島天満宮)です。縁起によれば、神社の創祀は雄略天皇2年(458)、この地に天之手力雄命を祀ったことが最初です。そしてのち、天神さんこと菅原道真公を祀る天満宮となり、太田道灌や徳川家康らの崇敬を集めました。
境内はさほどの広さはないものの、早春に香り立つ梅の木や池泉庭園、重厚な社殿と、絢爛たる神田明神とはまた異なった落ち着いた名社の風情です。天満宮名物の「撫で牛」も人々に撫でられてテカテカと輝いています。
では、なぜ祭神・菅原道真公といえば牛なのか。
伝説では、公は丑の年丑の月丑の日丑の刻に生まれ、丑の日に薨去。「みずからの遺骸は牛に乗せ、その行く場所にとどめよ」と遺言したとされ、何かと牛(丑)との因縁が語られますが、その根源には、道真公を神格化した「天満大自在天神」の称号にありそうです。
「天満」は、天罰を下す雷神の神威をあらわし、「大自在天神」は、もとは仏教世界の最大・最強の敵として立ちはだかったインドのシヴァ神の漢名。その乗り物が牛だったことから、シヴァと同一視された道真公の乗り物もまた牛だった――。
そう考えられているのです。
ちなみに、鬼門の方角を丑寅(艮)といいますが、十二支でいう「丑」の方位は北北東で、「寅」は東北東。その間のゾーンが鬼門にあたるのですが、湯島天神は江戸城から見て、まさに北北東の「丑」の方位に鎮座していました。偶然にしても、この“事実”にはゾクゾクさせられます。
いろいろ情報が錯綜してしまいましたが、筆者の「東京湾を臨む台地の先端に聖地あり」の仮説(これからも追々紹介します)はもとより、将門公、スサノオ命、日本武尊、道真公、さらに地主の稲荷神から異国の神まで集結する湯島(斎島)の地は、地霊的にも鬼門セオリー的にも最強の神仏エリアではないか。そう言わざるをえないのです。
【VOL.8へつづく】(9月20日公開予定!)
文・写真:本田不二雄
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【著者プロフィール】
本田不二雄(ほんだ・ふじお)
「神仏探偵」として、全国の神仏方面の「ただならぬモノ」を探索することを歓びとするノンフィクションライター。駒草出版の三部作として好評を博した『ミステリーな仏像』、『神木探偵』、『異界神社』(刊行順)のほか、そこから派生した最近刊『怪仏異神ミステリー』(王様文庫/三笠書房)、『地球の歩き方Books 日本の凄い神木』(Gakken)などの単著がある。
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