神仏探偵・本田不二雄が案内する 「TOKYO地霊WALK」 vol.11
御開帳の観音像を刮目し
鬼子母神出現の謎に迫る
【護国寺~雑司ヶ谷編・前編】
期待感を募らせる護国寺の参道
「御開帳」。
信徒はもとより、仏像好きをザワザワとさせる魅惑の3文字です。
ふだんはお堂の厨子に納められている仏像が、その御扉を開いてお姿を顕すわけですね。
場所は文京区の護国寺。徳川5代将軍綱吉の生母・桂昌院の発願によって創建された、お江戸を代表する巨刹のひとつですが、近年、毎月18日に本尊を御開帳されていると聞き、この機会を逃してはなるまいと思った次第です。
東京メトロ「護国寺」駅1番出口に上がり、振り返ると、丹塗りの仁王門が見えてきます。夏目漱石が『夢十夜』の第六夜で、「運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う」と書いたあの門です。
もちろんこれは夢で、平安末~鎌倉初期の仏師・運慶が実際に彫っているわけはないのですが、伝運慶(運慶作と伝承される)に擬せられるに相応しい見事な阿吽一対の仁王像……ですが、今回のお目当ては、脇の表札に書かれた案内のほうです。
「本尊 如意輪観世音菩薩
月 次 御 開 帳
毎月十八日 開帳御前十時 閉帳午後三時」
不老門(中門)につづく石段を昇ると、緑青色の本堂の屋根が見えてきますが、なかなかその全貌が見えてきません。門の手前まで到達したところで、ようやく巨大な伽藍があらわとなりました。護国寺のHPに「元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都内随一」と謳われるとおりの観音堂(本堂)です。
「如意輪観音の慈悲」を体現する美像
さっそく中に入らせていただきます。
通常であれば、堂内の意匠や奉納物、中央に奉安された巨大な厨子(宮殿)や祈祷壇まわりの装飾(荘厳)に目がいくところ、本日はちがいます。
やや薄暗い堂内、開かれた宮殿内部が照らされ、本尊・如意輪観音のお姿が浮かび上がっているのです。
目が奪われるとはこのことでしょう。
平安末期の作という、美しく、そして深い像容です。
右ひざを立て6本の腕をもつ左右非対称の異相でありながら、まったく違和感のないお姿。堂内撮影禁止のため見本図を挙げますが、護国寺像はとくに、右の一手をより深く曲げて頬に添え、お顔はよりうつむき加減で、沈思黙考するような深い思惟の相をたたえています。
ちなみに、如意輪観音とは、右の一手にもつ「如意宝珠(意のままに願いを叶える宝)」と、左の一手にもつ「輪宝(法力が転がり広がるさまをあらわす車輪)」に象徴される功徳(ご利益)によってその名があります。
つまり、ご利益絶大でありながら、なおわれわれ衆生に寄り添い、深く思いをいたすお姿。「如意輪観音の慈悲」をひと目で感受させるお像ですね。なお、結縁のための真言は「オン・ハンドマ・シンダマニ・ジンバラ・ウン」です。
ご本尊をガードする多士済々のメンバーたち
ところで、本尊の背後にたくさんの従者が見えます。三十三応現身像といい、「観音経」(『法華経』普門品)に説かれた、「観音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて33の姿に変じて現れる」に対応する33体です。
そのラインナップは、インドの神々(帝釈天や大自在天、毘沙門天などのほか、アシュラやカルラ、龍体像など)のほか、聖者や僧尼、童子の像など多士済々。これらは衆生の代表者にして、観音の化身なんですね。
なお、護国寺に伝わる文書(『諸堂諸社宝蔵什物帳』)には、こんな驚くべきことが書かれていました。
護国寺の創建を発願した桂昌院が、「三十三身仏像」を新たにつくらせ、それぞれの首にみずからの髪の毛を納入したというのです。おそらく、息子の将軍綱吉の治世があまねく安泰であるようにと祈りを込めた“護国の呪術”だったのでしょう。
ちなみに近年、33体のうちの大自在天が転倒、損傷したため修理に出したところ、頭部から毛髪が発見されたそうです。つまり、文書の内容(桂昌院の呪術)が三百数十年たって裏付けられたわけです。
このほか堂内の脇殿にも護国寺に伝わる古仏の数々が安置されており、仏像好きにはたまりません。
アヒル口の「大仏」と「音羽富士」にも注目
護国寺の見どころまだまだあります。
たとえば、江戸・元禄期の貴重な遺構である薬師堂や大師堂。
前者は、境内の池からあらわれたという薬師如来を祀るお堂。病や災難を除く医王仏に、ここでお詣りしておきましょう(真言は「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ」)。
後者は、言わずと知れた真言密教の祖で、神仏と同じく崇敬される弘法大師空海を祀るお堂。「南無大師遍照金剛」の宝号を唱えつつお詣りです。
このほか、境内に鎮座する「大仏」(毘盧遮那仏像)は、明治初期に筑波山から遷された銅像で、やや口角の上がった(アヒル口とも)微笑みのご尊顔は、拝する者を一瞬で癒してくれます。
また、大師堂脇にある「一言地蔵」は、祈願者の願いを一言だけ叶えてくれるというありがたい地蔵尊。扉を開けて祈る参詣者が絶えない隠れた人気スポットです。
もうひとつ、石段手前の東側にある石鳥居に注目しましょう。
この先にグーグルマップのいう「音羽冨士」があります。いわゆる富士塚(見立て富士)。はるばる富士山に登拝せずとも、富士山の熔岩を積み上げたこの築山に登れば同じご利益が得られるとして、江戸市中の各所につくられた富士山信仰の遺構です。
築山をぐるりと巡らされた“参道”脇には、富士講(富士信仰の結社)の石碑がびっしり建てられ、あっという間に登りつめる山頂には、浅間神社の石祠が祀られています。
見れば、般若心経らしき経文を書いた石と、なぜかクリなどの木の実が供えられていました。いいですね。なんだかほっこりと懐かしい気分になります。
鬼子母神の出現と三角井戸のミステリー
さて、ここからは、鬼子母神と七福神への道です。護国寺門前の道を西に進み、首都高速5号線の下をくぐって雑司ヶ谷方面、弦巻通りへと歩を進めます。
するとほどなく、吉祥天の赤い幟が目に入ります。そこから左の細道に入ると、雑司ヶ谷七福神の幟があり、鬱蒼とした木々に覆われた境内に招き入れられます。
清土鬼子母神堂です。
古地図を見ると、本浄寺(現存)の下(南)に小川が流れ、その下に逆さ文字で「鬼子母神出ゲン井△」(△は三角の井桁)の文字が見えます。その小川が暗渠になったのが現在の弦巻通りで、「出ゲン井△」が現在のお堂。つまり、鬼子母神が出現したとされる井戸の地に祀られているのが現在の清土鬼子母神堂です。「井△」は、その井戸が三角形であることを意味します。
『江戸名所図会』の「鬼子母神堂」の項にはこう書かれています。
こうして創建されたのが雑司ヶ谷鬼子母神堂(後述)だったのですね。
つまり、清土のお堂はその「出現所」。文中の「星の清水」については、「その井桁の形三稜(三角)なるゆゑに、土俗(地元民)、三角井とも字せり」(『図会』)とあります。つまり、鬼子母神を掘り出したあと、そこは三角の井桁が組まれた井戸になったわけですね。
実は、三角井戸は今も境内にあります。コンクリートで改修されてもその形が保たれているのは、そこが鬼子母神出現の記憶を伝えるモニュメントだったからでしょう。
それにしても、興味深い由緒譚です。
そもそも鬼子母神なる女神がなぜそこに出現したのか、なぜそこが井戸になったのか、なぜあえて「三角」だったのか。
そこには象徴的な意味が隠されているような気がします。
井戸はときにあの世とこの世の通路とみなされ、新生児は産井の水を介してこの世に迎えられます。また、鬼子母神は安産・子安の神といわれ、それが地中から出土したことは、この女神がもつ地母神的な性格を暗示してもいます。
三角形、とくに下向きの逆三角形は女性原理(女陰や子宮)の象徴とされますが、井戸の三角については、今のところ謎のまま保留にしておきます。
ひとつの考え方としては、あらゆる生命を育む井戸の女神(水神)と鬼子母神の神格(功徳)が結びついたのが上の伝承で、鬼子母神はこの地域の地母神として出現したのかもしれません。
なお、境内には雑司ヶ谷七福神のうちの吉祥天が祀られていますが、この女神は、鬼子母神の娘とされています。以後、元弦巻川の暗渠道をさかのぼり、七福神を訪ね歩きながら、鬼子母神の本拠へと歩を進めていきましょう。
【後編につづく】
文・写真:本田不二雄
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【著者プロフィール】
本田不二雄(ほんだ・ふじお)
「神仏探偵」として、全国の神仏方面の「ただならぬモノ」を探索することを歓びとするノンフィクションライター。駒草出版の三部作として好評を博した『ミステリーな仏像』、『神木探偵』、『異界神社』(刊行順)のほか、そこから派生した最近刊『怪仏異神ミステリー』(王様文庫/三笠書房)、『地球の歩き方Books 日本の凄い神木』(Gakken)などの単著がある。
Xアカウント @shonen17