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「安楽死」「尊厳死」の議論の前に、公衆衛生行政について考えてほしいこと

ALS患者の嘱託殺人のニュースが流れ「安楽死」「尊厳死」「死ぬ権利」などの議論も進められようとしています。その議論の前に、少し考えてほしいと思ったことを書きました。

誰にも「自死」は選んでほしくない

ALSは「筋萎縮性側索硬化症」のことで、手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気です。もし、自分の手足が自由に動かせなくなり、起き上がることも、食べることもできなくなり、自分で呼吸もできず、視力まで失うかもしれない…想像に絶する辛く厳しいものだと思います。

だからといって「安楽死」「尊厳死」について議論するのは、あまりにも拙速すぎるんじゃないか…もっとできること、することがあるんじゃないか…そう思います。

「自分で死ぬこともできないんだから…」という声もあります。でも、それって要するに「自死」を肯定するってことになるのでは?とも思えてきます。もし、僕の周りの誰かが「死にたい」って言ったら、僕は全力で止めようと思います。少なくとも「仕方ないね」とは言えないと思います。僕は誰にも「自死」は選んでほしくない。

ALS患者と主治医だけの問題ではない

今朝のニュースで、ALS患者が主治医に「安楽死」を求めていたというニュースも流れていました。このように主治医と患者の関係は取り上げられますが、保健所の役割についてはなかなか報道されません。

いま、新型コロナにかかわって、保健所の問題がよく取り上げられていますが、このALSという難病患者への支援も保健所の大事な仕事の一つです。コロナの関係では「PCR検査が受けれない」とか「電話がつながらない」とか、そんな話題で保健所がよく出てきますが、本来の保健所の仕事は、感染症の蔓延に対する対応だけでなく、難病患者、高度医療の難病の子どもたち、精神疾患の患者など、社会の中で生活していくためのサポートをする、まさに「ゆりかごから墓場まで」人に寄り添う仕事です。

「保健師さんが来てくれなくなった」

しかし、1980年代後半からの「行政改革」路線の中、保健所も保健師も保健所職員も減らされ続け、都道府県に設置される保健所は「広域・専門業務だけやってればいい」と地域から引き剥がされてしまいました。

以前に難病患者団体の方とお話をしたときに「保健師さんがあまり来てくれなくなった」という声もお聞きし、辛い気持ちになったことを思い出します。

人生を支える保健師の活動

今回の事件を受けて、考えを巡らせる中で、保健所が十分な支援、サポートができていたんだろうか…という思いが拭えません。

ALS患者の在宅での療養にあたって、保健所・保健師は、主治医以上の役割を発揮することができるし、現場の保健師さんたちもそう思って活動しています。

専門医療への受診の支援、緊急時の受け入れ病床の確保、病気に関する情報の提供や同じ病気の患者や家族との交流の機会作り、経済的な問題も含めた相談、患者や家族の思いを受け止め、生きがいを持つための支援など。

見えないところにこそ現れる保健所機能低下の影響

都道府県に設置される保健所の多くは、先にも述べた「広域・専門」という名目のもと、保健所・保健師削減に伴って、地域担当制から業務分担制へと変えられてきました。もちろん現場の保健師さんたちは反対しました。そんな中で1人ひとりの患者に向き合う時間を物理的に奪われてきたというのが実情です。

ここからは推測でしかありませんが、今回の事件がこうした状況の影響を受けているのではないか、安楽死を望んだ彼女が生きる希望を持つためのサポートを行政がもっとできたのではないか…と思わざるを得ません。

新型コロナの問題も含め、あらためて保健所の役割、公衆衛生の役割を憲法25条に照らし合わせて考えなければならないと思います。

憲法25条は、すべての国民に「健康で文化的な」生活保障を謳っています。難病患者や障がい者が除かれているわけではありません。
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日本国憲法第25条
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

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