土偶との生活?
土偶というのは、縄文時代のほぼ全期間を通じて、列島各所でつくられていた粘土の人形(ひとがた)の総称です。時代や地域で違いはありますが、その多くが女性を象っているとされてきました。土偶が何を表現しているのか、どんな性格を帯びているのかについては正直はっきりとわかっていません。
土偶の多くが壊れた状態で発見されることから、意図的に破壊されたものではないか、という点も古くから指摘されてきました。様々な解釈がありますが、私は少なくとも縄文中期の、井戸尻文化の土偶は「意図的に壊されている」と考えています。
井戸尻文化の土偶が女性を表現していることは、その身体的な特徴からほぼ明らかですが、わざわざ粘土の像として形作られる土偶を、私は「写実的な人間の女性」ではなく「象徴物としての女神像」だと理解したいと思います。
もっともそれは私個人であるとともに、井戸尻考古館としての理解でもあるのですが。
で、唐突に土偶について書いているのは、それが何者であるか、という議論がしたいのではなく(それが重要な意味を持っていることは承知のうえで)、縄文人の生活の中で、土偶がどのように息づいていたか、ということを考えたくなったから。
殺される女神
私は、少なくとも井戸尻文化の土偶は女神像であり、最後にはバラバラに壊されて、埋められて(遺棄されて)しまうものと考えています。(どうしてそうなのか、どのような性格の女神なのかなど、その背景についてはお手数ですが井戸尻考古館関連の書籍などをお読みください。)土偶がバラバラに壊される=女神がバラバラに殺害される、という神話観が表現されたものだと考えています。この視点に立つと、土偶は壊されることを目的としてつくられた器物だということになります。死ぬことが前提で生まれる女神、ということになるのでしょうか。
高原の縄文王国収穫祭の土偶の祭り
毎年秋に開かれる、「高原の縄文王国収穫祭」では、土偶が殺められ、五体が寸断されます。その年の収穫への感謝を捧げたのちに、来年の豊穣を願うため、女神を殺してある部分は埋め、または播かれるのです。これは井戸尻考古館なりに考えてきた土偶と“土偶祭祀”の姿です。秋の楽しい収穫の祭りに女神を殺すとは!?と思われるでしょうが、収穫を祝い、来年の豊作と寒く厳しい冬に立ち向かう覚悟を示すのが収穫祭ですから、これは非常に大事な部分です。
このような意味で土偶とよく似た面影を持つのが、人面深鉢(顔面把手付土器などとも呼ばれますね)でしょう。体から食べ物を産みだす人面深鉢は、土偶に比べ、より食物神の性格が色濃いように思います。いずれにしてもそれは、本来秋の収穫の喜びとともに壊されるものであったはず。それが普通の光景だったのではないかと。
壊されない土偶
さてそうだとすれば、稀に発見される「壊されずに出土する土偶(あるいは人面深鉢)」は、どうなるのでしょう。私の感覚からすればそれは「異常な姿」だということになります。収穫の祭りが行えなかったとか、ムラ、あるいは地域全体に、何か異常な事態が起こったのではないか、と思うのです。
壊されなかった土偶の代表は、茅野市棚畑遺跡出土の国宝土偶「縄文のビーナス」でしょう。一部に意図的な破壊行為が認められる中ッ原遺跡の国宝土偶「仮面の女神」や、富士見町坂上遺跡の重文土偶「始祖女神像」も、大ぶりの完全体の土偶(坂上例は右脚を欠く)が、集落の中心である墓群の一画に埋設されていたという点で一致します。
土偶は壊されるもの、と考える私からすれば、壊されない土偶の意味は、当然考えなくてはならない問題です。
あらためて今年の「高原の縄文王国収穫祭」は、例年通りの賑やかな収穫祭ではなく、収穫に特化した体験イベントとして2021年10月23日に開催されました。収穫はできたのですが、土偶の殺害は行わないことにしました。なぜ?
昨年はコロナの終息と翌年の開催を願い、祈る意味で祭式のみを無観客で執り行いました。だから同じようにコロナ終息と来年の開催を祈って祭式を催行してもよかったのですが、今年はムラ人も集まれない中、各々が収穫に感謝するところまで、としたのです。個人的には、今年の土偶を来年まで生き永らえさせることで、より強い祈りをこめようと考えました。
土偶が生まれてから、眠りにつくまで
ここで思ったわけです。その間、つまり来年の収穫祭までの間、土偶はどのように私たちの暮らしの中にあるのか。話が戻りますが、土偶が意図的に壊されるのか否かという議論は、土偶の性格を考えるうえで非常に重要です。けれどもそれは、土偶の最後がどうであったか、という議論にすぎません。いつ産み出され、どのように生活の中にあり、どう壊されるのか。土偶の一生が知りたいのです。
かつて長野県で開かれた第17回土偶研究会のテーマは「土偶の仕舞い方」でした。このテーマはなかなか素敵で、仕舞うということはつまり、それまでに機能していた時間があることを意識しています。
井戸尻考古館で2015年に開催した「坂上遺跡出土土偶 重要文化財指定記念講演会」では、山梨県の小野正文先生と多摩美術大学の鶴岡真弓先生をお招きし、講演会とトークセッションを行いました。トークセッションでは、司会者のくせについ聞きたくなって、土偶が生まれてから眠りにつくまでについて質問してしまいました。小野先生から「そんな質問しますかね(笑)」と怒られましたが、補修されて継続的に使用された土偶の事例を紹介してくださいました。いっぽう鶴岡先生は講演の中で、ケルトに由来するラマスという収穫祭では、「一年をとおしてではなく、その時、その季節、その祝日にこそラマスの女神が“姿を現す”」とされました。
生活の中で
土偶との生活、それはどのようなものだったのでしょうか。土偶が常に住居のどこかに祀られていたのか、あるいは隠されていたのか。祭りに合わせて作られ、命が吹き込まれたのか。あるいは「形代」のように形だけはあり、“その時”だけ神が宿ったものなのか。
服を着せられていたかもしれませんし、羽飾りをつけていたかもしれません。あるいは埋められていたとか、吊り下げられていたのかも。
井戸尻考古館では様々な体験を通じて、自分が縄文人に近づいていくという研究スタイルをとっていますし、それが私の信条でもあります。だから私にとってみれば、「今年は土偶を壊さなかった」そのことが、とても重いのです。棚畑遺跡の「縄文のビーナス」のように土偶を埋葬することはしませんでしたが、“異常な”収穫祭を自分たちが体現したことになりました。そう、確かに歴史の中で見れば、昨年と今年は異常事態ではあったのです。
イベントが終わり、すべて撤収した日没後、遺跡の穂倉の前で、恒例の「くく舞」をひとり奉納し、暮れ残る山々を眺めて考えていました。祭りの後の寂しさや、イベントが無事終わった解放感はありません。ひんやりとした厳しさと緊張感だけが、体に残りました。
ここまでつづってきたことは、縄文文化の研究というよりは、井戸尻考古館の活動の記録です。縄文人の生活の中に、どのように土偶が息づいていたのでしょうか。想像は尽きません。