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北斗に生きる。-最終話-


アメさん(米軍)の音もなく静かになったので、風呂に向かう。道路のわきの草むらに飛行服を着た下士官がいる。自転車にまたがったまま目をギョロッと開けて死んでいる。おそろしい。空から目える所は歩けない。一休みして風呂に入ろうと何百年か前に掘った横穴に入ってみる。中に入って驚いた。怪我人が七、八人ほどいた。一人は腹に千人針を巻いて、太腿の肉が半分無く、骨が白く見えていた。

レンガ造りの酒保庫の前を通った。甘い香りのする煙がモクモクと出ている。赤黒い物体がニョロニョロの流れ出している。風呂なんか入らなくてもと、帰ることにする。鹿児島湾の海の中に首までつかり、フワッと大きな息をする。皆無言である。でも、頭の中は同じことを考えていた。あの時、走らなかったら…と背中が寒くなる。

翌朝、山に行き、昨日亡くなった兵の火葬の薪拾いである。八ツの屍の頭を海の方に並べて、火葬である。夕刻、焼き上がり、全員で亡き友の骨を拾った。後日、人間の勘は恐ろしいものと思った。火葬した翌日、亡くなった兵の母親と妹が面会に来た。応対に出た下士官は、現在、木箱に入ってしまった兵は「今出張で不在であるので四、五日したら戻ってくるので、今日の所はお引き取りください」と帰したそうだ。
関西の方だと聞いた。あの爆撃にあった直後、面会のために汽車に乗ったことになる。

人吉では、武器爆薬を平地においては危険と、山の中腹に横穴を掘り、その中に運び込む作業である。
ある日、掘る作業員の手伝いである。一人若者が黙々とツルハシで掘っていた。土を外に出すのが我々の仕事である。一服しようと声をかける。片言で話をする朝鮮人である。毎日、下士官が来て「もっと掘れ」というが、「早く戦争が終わって国に帰りたい」という。終わりは長くはないだろうが口には出せなかったのだ。初めは何らかの金を送金したが、この四ヶ月ほど送金はしていないとのことだった。無報酬で働かされている奴隷である。

二週間ほどして、今度は宮崎県の特攻基地に行くことになった。武器も持たず、毎日サイレンを聞くたび、作業も訓練も止めて逃げるのが、日課みたいなものだった。黒色火薬五○トンを、土土呂神社(※同名の神社は無かったが、当時この辺りには第48・116 震洋特別攻撃隊や海岸線沿いに特攻隊の基地が複数あったこと、地理的なことから判断して、現在の霧島神社ではないかと推測)の宝物殿に入れてある。その火薬の番である。苦しさもないが楽しさもない。神社の脇に石で囲んだ古井戸があった。そのすき間から人間の指の爪程の甲羅の真赤な蟹がチョロチョロと何十匹も出てくる。何か食べ物を見つけるとそれをささげるようにして走る。見ていると何となく苦しさを忘れる。兵舎を出る時は、必ず干魚のクズとか、菓子のカケラをポケットに入れて出たものである。石川啄木ではないが「我泣きぬれて蟹とたわむる」心境には遠いけれど、空しさ中に、一抹の安らぎを覚えた。

昭和二十年は天候の悪いせいか、すがすがしい青空を見ることがなかった。
十キロほど離れた延岡市が空襲でやられた。
十キロ離れていても、足元が見える明るさであった。なぜ延岡の田舎町まで焼きつくすのか。中央の川に飛び込み、二、三百人ほど死んだとのことだ。

翌朝、五頃から荷車、大八車に、鍋、カマ、布団などを積み引いてくる。子供が大人の着物をき、女の人は子供を背負い、老人の手を引く。次から次へと昼頃まで列は続いた。本当にこの世の地獄を見たように思えた。
ある時、番に出ていた。前の道を荷車に肥料になるものを載せ、丘に登っていく小母さんがいた。余り重そうなので走っていき二百メートルの坂を一気に頂上まで登る。
「兵隊さん、こげんこっしてよかとか」という。兵隊は民家の手伝いをするものではないと思ってたらしい。「有難う。帰りに家に寄ってお茶でも飲んでいかんとか」といわれた。
以後、度々寄せてもらう。四十八歳とかで元気に働いていた。一人息子が今、中支で戦っている。四ヶ月も便りがないらしい。

私は三十五度以上の生活は初めてである。
日陰にいても汗がふきだしてくる。いつものように任務についていた。
昼すぎ、正男君(五年生)がとんできた。
「とうとう日本は負けたとよ。天皇陛下がラジオでいってた」と告げる。
とたん五体がくずれる思いだった。雲一ツない晴天であるが、太陽を見てもまぶしくはなかった。

八月十五日、何かをする気力もない。食欲もない。兵舎に帰る。夕食後、外に出る。
昨日まで暗かった街は電気がつき、明るい街に見えた。翌日、任務につく。神社前浜では何事もなかったかのように磯舟を出して、漁に出る支度をしている。小学四年生くらいの子が弁当を持って、父ちゃんと一緒に沖に出るらしい。四、五歳の子は小さな丘蟹を追いかけ、キャッキャッと大きな声を上げている。昨日まではあのような元気な声をきいたことはなかった。

明日は明日の風が吹く。
そのうちなんとかなるだろう。

(完)

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祖父の手記を通じて。

最後まで読んでいただきありがとうございます。このnoteでは、戦争体験者である私の祖父・故 村山 茂勝 が、生前に書き記した手記を10話に渡って掲載してきました。
今の時代だからこそできる、伝え方、残し方。
祖父の言葉から何か感じ取っていただけたら嬉しく思います。

今年の終戦記念日に、祖父の手記をあらためて読み返しながら、孫の私は祖父の人生を辿るように文字なぞりました。生まれた場所、男四人での樺太での生活、出兵のエピソード、負けず嫌いで勇ましい性格、戦火をくぐり抜け、そして迎えた終戦の日。どんな所に住んでいたのかを知りたくて調べた地名から、祖父の足跡をたどっていきました。
そういえば、この手記を書いていた頃だったか、まだ旅行なんかも元気に行っていた時に、指宿で当時の友人と集まるのだ、という話を聞いたことがあり、そんな話もふと思い出しました。

私はわりとおじいちゃん子だったと思います。
大工だった祖父の武勇伝(作業中に屋根から落っこちたとか、電動ノコギリで腕を切ったとか)を、祖父の膝の上で弟や妹たちと一緒にワクワクしながら聞くのが大好きでした。同じように戦争のはなしもよく聞いていて、怖いな、といつも思っていました。

祖父の手記をまた読み返したこと、たまたま今年の春に自分が十数年振りに広島へ赴いたこと。
多分、きっと何か見えない糸で繋がっているんだと感じていました。

戦争。

いまも世界のどこかで苦しんでいる人がいるという事実。
果たして自分に何ができるだろう。
巨大で真っ黒な渦に、ひとりのちっぽけな人間が出来ること。
わかっていることは一つある。
仕事でも育児でも家事でもなんでも、人間は即効性のあるもの、最短ルートをいつも考えてしまう。
でも多分、それは違う。

自分に出来ることを考えた時、私は家族や友達、自分の身近な人を、近くにいる人を幸せにする。そして、自分の機嫌は自分でとって自分自身も幸せにする。さらに、仕事の力をチカラを借りて、まだ見ぬ誰かも幸せにする。
ただただもう、それだけだなと思った。

仕事をしていようがいまいが、社長だろうが平社員だろうが、大人だろうが赤ん坊だろうが、関係ない。多分みんな無意識に誰かを幸せにしている。五歳の息子は、お金を稼いだり、物を作ったりしているわけではない。でも、確実に彼の友達や私たち周りの大人も彼の笑顔から元気を貰うし、それで私たちが頑張れることも確実にある。究極、生きていることがきっと誰かに幸せを与えていると思う。

「小さいよ、そんなこと。戦争を無くすとか世の中を良くすることには直接繋がらない」と言われてもいい。そう言うだけで、すでに諦めて何もしないより、たとえ1mmでも前にすすむ方を私は選ぶ。

そして、その小さな幸せはきっとまた他の誰かに波及する。ひとつひとつは小さいかも知れないけれど、そうして水面の波紋みたいに広がって、みんなの幸せの積み重ねや集合体が平和ってことなんじゃないかなと思う。

遠かろうが間接的だろうが、自分のすることが誰かの役にたったり、世の中の役に立ったり、遠くても尊い何かに繋がっているんだと思えれば、日々のひとつひとつのものごとが、途端に意味を持って輝き出す。全てに意味がある。

じいちゃん、ありがとね。がんばるわ。