パパが死んだ日
朝、おはようといったかは覚えていない。
夜、行ってきますといったかは覚えていない。
ただの日常だった。
仕事終わりに家で寝ていて、パパは仕事に行っていた。
11時くらいだったと思う。
家のドアがどんどんと強くたたかれて、大家が家賃でも回収に来たのかと思って、最初は無視をした。
でも随分としつこいから、なんなんだ、と思って出てみたら、そこにいたのは大家のおじいちゃんじゃなくて、パパの友達のおじさんだった。
なんだか、随分と切羽詰まった顔をしていたような気がする。
「お父さん倒れたから、今から病院に行くぞ」
何を言っているんだろう、と思った。
とにかく準備をしろと言われたから、携帯と、財布とタバコだけ鞄に入れて、おじさんの車に乗った。
携帯を確認してみろ、と言われて確認したら、消防局だか、なんだか忘れたけれど、とにかくたくさん着信が残っていた。
そのタイミングでちょうど電話が来て、電話に出たら、救急隊の人だった。
お父さんが職場で倒れて、今〇〇病院に運ばれたから、急いで向かってくれ、ということを言われたと思う。
迎えが来てくれたので、今向かっています、と伝えた。
カタカタ震える手で、タバコを吸っていいか確認した。
おじさんもタバコを吸い始めて、車の中は沈黙だった。
病院に着いて、救急の入り口から入って、受付の人に、「ここに運ばれた〇〇の娘です」と伝えたら、救急処置室の廊下に案内されて、一度ここで待っててほしい、今処置をしているところだから、と伝えられた。
座って、何もわからなくて、カタカタと震える手を握っていたら、パパの職場の人が来てくれた。
あんまり覚えていないけど、パパが職場で突然倒れて、同僚の方が心肺蘇生を施してくれたこと、一緒にいるのは会社の上司の人だと教えられた。
とにかくお礼を伝えて、どうしよう、どうしよう、とパニックになってたのを覚えている。
この辺の時系列があんまりわからない。
姉に電話をした。
東京に住んでいるから、「パパが倒れたから、今すぐこっちに来て」と伝えた。
姉が、母に向かってもらう? と聞いてきたから、お願いした。
自分の職場に連絡して、父が倒れたから今日仕事に行けないこと、次いつ行けるかわからないことを伝えた。
救急の廊下で、ずっと何かの機械のアラート音が鳴り響いてて、どうかこれがパパじゃありませんように、と手を握っていた。
でもその部屋から運び出されてきたのは、いろんな管につながれたパパだった。
担当の救急医の方が疲れたような、緊張したような顔でこっちを見てきた。
娘さんですか? と聞かれて、はいと答えた。
職場で心停止したこと。
病院に着くまで一時間CPRが続けられたこと。
自発呼吸が30分以上止まっていたこと。
その時点で思った。
ああ、パパ死ぬんだ。
もう起きないんだ。
もう駄目なんだ。
医師は言葉を選ぶように、慎重に言葉を紡いでくれた。
「意識が戻ることはない。万が一戻ったとしても、脳に重度の障害を負ってしまっている。延命措置をしても、植物状態になってしまう。どうするかを決めてほしい」
多分もっと、丁寧に説明してくれたけど、要はそういうことだった。
もう起きないこと。
起きたとしても重度の脳障害を負っていること。
生かしておくとしても植物状態でずっと入院状態になること。
延命措置をするかどうか、決めなきゃいけないこと。
パパの命が今私の手の中にあること。
隣の処置室でパパに会った。
意識はなくて、高熱を発していて、体中が、ベッドが揺れるほど強くがくがくと痙攣してた。
パパの友達のおじさんは、「なんでもいいから、なんでもしてくれ!」と叫んだ。
でもわたしは、黙って、とだけ言った。
この人はどういう関係の人? と訊かれたから、パパの友達で、親族ではないので何の権限もないこと。
今わたしだけで決められないから、姉が東京からこっちに来るまで待ってほしいと伝えた。
でも医師は、難しいかもしれない、と言ったし、わたしも、難しいだろうなと思ってた。
だから、「次発作が起きたら、そのまま見送ります。でも、それまでなんとか生かしてほしい」とお願いした。
随分と無茶なお願いをしたと思う。
でも医師は最後まで頑張ってくれた。
母が着いた。
姉は仕事がどうしても休めないから明日になる、と連絡がきた。
わたしは怒って、そんな職場なら辞めてしまえ、父親が死にかけてるときに実家に帰してくれないような職場なんか辞めてしまえ、見送ってくれないような彼氏なら捨ててしまえ、と怒鳴りつけた。
看護師さんが、お父さんの荷物と、処置の為に切っちゃったけど、お洋服をお渡ししますね、と来てくれた。
たくさんの書類を渡されて、記入してくれと言われて、何もわからなかったから、ママに言われるがままにサインした。
パパは準集中治療室に運ばれた。
ICUとの違いはわからなかったけど、看護師が常駐してて、何かあったらすぐに対応できる部屋というのだけわかった。
ママと一緒に家族控室に行った。
職場の人にはお礼を伝えて、何かあったら連絡しますと言ってお帰り頂いた。
友達のおじさんはずっといたそうだったけど、もうママがいるから大丈夫、何かあったら連絡する、ここから先は親族関係者しか入れないから、と帰ってもらった。
この辺の時系列も曖昧にしか覚えていない。
家族控室は幸いにというか、私達しかいなくて、泣きどおしだったわたしはソファに横になった。
ずっとパニック状態で、ずっと興奮状態だった。
ママが気を紛らわそうとテレビをつけたら、24時間テレビがやっていた。
地球を幸せに、だの、フルマラソンだの、人々に笑顔を、だの、そんな言葉が耳について、イライラして、消してくれ、そんなもの見たくない、って叫んだ。
いまだに24時間テレビの時期になると思い出す。
準集中治療室にパパが移送されて、ママと一緒に会いに行った。
看護師さんが気を遣ってくれて、本当は面会時間決まってるんだけど、いつ何があるかわからないから、特別にいつでも顔を見に来てあげてください、と言ってくれて、うれしかった。
がくがくと痙攣する体が可哀想で、高熱で流れ続ける汗が可哀想で、わたしは泣いてばかりだったけど、ママが、
「パパもつらいだろうから、痙攣だけでも薬で止めてもらおうか」
と言ってくれたので、うん、と頷いた。
延命のためじゃなくて、今の体の状態を落ち着かせるための点滴や薬を入れてくれた。
疲れ切った担当医が、準集中治療室のテーブルで説明してくれた。
わたしに、というか、後できたママに向けて。
なんとか手は尽くすけど、次発作が起きたら、どうするかだけ決めてくださいって言われたから、わたしはまた、そうしたら、もうそのままにしてくださいって言った。
パパの携帯を開いて、連絡が必要な人達に連絡した。
パパの兄弟、親族に、次々電話を掛けた。
パパが倒れたこと。
もうどうしようもないこと。
いつ死ぬかわからないこと。
今どこの病院にいるか。
今すぐ向かう、という人と、行っても何も出来ないから、何かあったらまたすぐ連絡して、という人がいた。
パパの友達が次々に病院に来たから、わたしはその度にエントランスに行って、準集中治療室にいること、親族以外会えないこと、何かあったら連絡するので、申し訳ないけど帰って連絡を待ってほしいこと、今どういう状態なのかを伝えて、頭を下げた。
パパの兄弟が来た。
来れる親族の人も来てくれた。
姉は次の日に来た。
パパは、幸いなのか、なんなのかわからないけど、三日も耐えてくれた。
この辺の記憶は本当に曖昧で、時系列もぐちゃぐちゃで、三日の間とにかくわたしは不安定で、興奮状態で、ひとりにすると何をするかわからないと、ママに警戒されていたのを後で教えられた。
看護師さんが、シフトの入れ替わりの度にあいさつに来てくれて、娘さんも何かあったらいつでも声をかけてくださいね、安定剤くらいだったら出せますから、と言ってくれたのが嬉しかった。
会いたい人が顔を見て、パパの職場に顔を出して、改めて、倒れた時の話を聞いたり、救急車が来るまでCPRを続けてくれた人にお礼を言ったり、役所に行って高額療養費制度の申請をしたり、いろいろ終わって病院に戻ったのが、三日目の、……何時だったかはわからない。
ママが先に車から降りて、わたしはタバコを吸ってから戻るね、と声をかけた。
タバコを吸って、車に鍵をかけて、ぼーっとしながら家族控室に向かっていたら、廊下の向こうから焦った顔のママが顔を出した。
「早く来て!」
頭が真っ白になった。
病院の廊下を走って、準集中治療室のパパのベッドに向かった。
機械のアラート音が鳴り響いてて、姉と、わたしと、ママと、パパの兄がそばにいた。
パパの手は汗だくで、やけどするんじゃないかってくらい熱くて。
それでも、わたしとママと姉で手を握って、その時を待った。
たくさん声をかけた。
ありがとうとか、ごめんねとか、もういいよとか、行ってらっしゃいとか。
わたしはなんだか、パパがちゃんと成仏出来るか心配で、光ってる方に行くんだよ、ちゃんと、周りを見たら光ってるところがあるから、そこに向かっていくんだよ、と繰り返してた。
きっと心配性な祖母ちゃんが迎えに来るから、光ってるところを探すんだよ。
パパは車が好きだったから、もう行く時間だよ、って何度も伝えた。
スタートの合図で、走り出すんだよって。
機械のアラート音が耳に刺さったとき、ありえないことが起きた。
パパが目を開けたんだ。
頭のどこかでは、死ぬ前の体の反射だとわかってたけど、でも声をかけた。
パパ、みんないるよ、わかる?
ママも、姉貴も、わたしもいるからね、大丈夫だよ。
パパはぽろりと涙をこぼして、こくりと頷いた。
確かにあの時、パパの意識は一瞬だけ体に戻ってくれて、わたしたちの声を聴いて、頷いた。
もういいんだよ、しんどかったよね、ごめんね、もういいよ、もうスタートするんだよ、って声をかけた。
パパは目を閉じて、ぴっぴっと鳴り続けていた機械は静かになった。
パパの兄が、時間をぽつりとつぶやいた後に、医師が正式に死亡宣告を行って、そしてパパは旅立った。
小学校五年生から、26歳の時まで、二人でずっと暮らしてた。
人生のほとんどが、パパとの生活だった。
わたしの、もともとひび割れていた心はガタガタに崩れて、4年間働くことも出来ず、パパの話になれば泣き崩れて、葬儀で流れた曲を聴けば泣き出して、パパの話をされると怒り出した。
パパが死んだとき、わたしの半分も死んだんだと思う。
あの時ママが言った言葉を覚えている。
「死ぬときは娘達に面倒をかけないように約束してた。パパは守ってくれた」
確かに、もしパパが家で死んでいたら、わたしは一緒に死んでいただろう。
ママはパパの悪口しか言わなかったけど、葬儀の時、わたしと一緒に泣き崩れて、
「もう喧嘩も出来ないじゃんか」
と泣いていた姿を忘れることはできない。
わたしはもう、パパにおはようも、おやすみも、行ってきますも、行ってらっしゃいも言えない。
親なんて死ねばいいという人がいる。
虐待を受けていたり、ただの反抗期だったり、思春期だったりするのかもしれない。
わたしにはわからない事情がその人にもあるんだと思う。
親が死んでようやく解放されたと、息を吐く人もいるだろう。
でも、親から加害を受けていないなら、考え直してほしい。
あなたがそう思えるのも、育ててくれた人がいるからだということを。
出来ることなら仲良くしてほしい。
出来ないならば逃げてほしい。
親だけじゃないけれど、わたしは、誰かに気軽に死ねと言葉をぶつける人が嫌いだ。
誰かの死を願う人が嫌いだ。
その人にも大切に思う人がいて、その人を大切に思っている人がいることを忘れないでほしい。
あなたに友人がいるように、その人にも友人がいる。
あなたに親がいるように、その人にも親がいる。
人はみんな、誰かの大切な人だから。
誰かの大切な人を、死ねばいいなんて言わないでほしい。
思ったとしても言葉にしないでほしい。
その言葉に傷付く人がいることを忘れないでほしい。
あとひと月で、パパが死んで5年が経つ。
わたしはまだ、立ち直れていない。
一生立ち直れないんだと思う。
あの時一緒に死ねばよかったと、今でも思う。
パパは職場で倒れて、病院に行くことで、わたしの命を守ったんだと思う。
だからわたしはまだ死ねない。
苦しいけれど、しんどいけれど、パパが守った命だから、まだ死ねない。
まだ、まだ。