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江戸時代の遊女・吉原遊郭と投げ込み寺の実態とは?
江戸時代における遊郭の役割
江戸時代、日本には幕府の認可を受けた「三大遊郭」として、江戸の吉原、京都の島原、大坂の新町が存在していました。これらの遊郭は公認されているため、合法的に営業を行うことができました。特に吉原は、その中でも一際大きな存在でした。遊女たちは高級店に所属することで、時には時代のトレンドを生み出すほどの影響力を持つファッションリーダーとなりました。彼女たちの中には、藩の高官並みの収入を得る者もいましたが、そのお金は彼女たち自身のものとなることはなく、借金返済に消えていきました。
借金の罠と閉ざされた人生
吉原に入る遊女たちの多くは、親や夫の借金の代償として売られることから始まります。しかも、その借金は高利の利息がついており、自力で返済して自由になることは事実上不可能でした。彼女たちはその生活に閉じ込められ、年季が明ける前に亡くなることも少なくありませんでした。吉原での生活は厳しく、遊女たちは自由を夢見ることも難しい環境でした。
投げ込み寺とは?
年季が明けることなく亡くなった遊女たちの遺体は、真夜中に逆さに吊られて吉原から運び出され、三ノ輪の浄閑寺や日本橋堤の西方寺など、いわゆる「投げ込み寺」と呼ばれる場所へと持ち込まれました。これらの寺では遺体に小銭を添えて放置されることが一般的で、親族が引き取るケースは稀であり、彼女たちはほとんど無縁仏として処理されました。浄閑寺の過去帳によれば、月に平均して40人の遊女が運び込まれたとされ、西方寺ではそれよりやや少ない数が記録されています。
災害と遊女たちの犠牲
吉原はたびたび火事や地震などの天災に見舞われ、多くの遊女が犠牲になりました。特に安政二年の地震では、建物が倒壊し、多数の遊女が下敷きとなり圧死しました。浄閑寺に運ばれた遊女の遺体は526人以上に及んだと伝えられています。これらの遺体もまた、無縁仏として寺に葬られました。
短い命と戒名に見る遊女たちの境遇
遊女たちの平均寿命は22.7歳とされ、これは当時の日本人女性の寿命が20代後半であったことを考えると、非常に短命であったことがわかります。浄閑寺の過去帳に残る記録にも、それが裏付けられています。さらに、遊女が自ら命を絶ったり、客と心中したり、逃亡の末に捕らえられて拷問で亡くなった場合には、「売女」や「遊女」という戒名がつけられました。こうした戒名は、遊郭がその死をどう受け止めていたかを物語っているのです。