星の畑
手渡されたのは光る種。手のひらで月明かりに青く輝くひとにぎりの種を見て、彼女は代わりに先ほどスーパーで買ったツナ缶を差し出しました。水色のキッチンカーのカウンターから伸びた黒い前足が彼女から代金を受けとります。エプロンをした店員の顔に彼女は見覚えがありました。月に冴える瞳は種と同じ青色が灯っています。彼女は何もかもがうまくいかなかった今日の始まりに思いを馳せました。
朝。自宅のベランダに迷い込んだ黒猫と彼女は目が合いました。野良猫はお腹を空かせているようだったので、朝ごはんにしようとしていたツナ缶を彼女は黒猫に与えたのです。小皿に盛られたツナを食べ終えると、猫は一瞥もくれずに、彼女が大事に育てていたネモフィラのプランターを倒して、去っていきました。もうすぐ咲くはずだった花の土は散らばり、空の小皿が虚しく朝日に照らされていました。
悪いことは重なります。後片づけをしていたら朝からだいじな会議が入っていた会社には遅刻し、通勤のため駅まで乗っている自転車のカゴには隣りに停められていた自転車のハンドルが刺さっており、入社祝いに祖父が買ってくれたバッグには知らないうちに穴が空いていて、スーパーからの帰り道にお財布がバッグの穴から落ちてしまったらしいことに彼女は気づきました。情けなくて、鼻水が出ました。
その夜。自転車をひきながら彼女は例のキッチンカーを見かけたのです。街灯に照らされた水色の車体を覗くとエプロンをした黒猫が彼女に声をかけてきました。どの種にする? 喋りかけてくる顔を見ると、今朝の猫です。眉間にシワを寄せる彼女の機嫌をとるように黒猫は言います。半額でいい、そのツナ缶ひとつでいい。そうして彼女はツナ缶を支払い、種を受けとったのです。夜を照らす小さな青色。
黒猫がくれた巾着袋に種を入れ、巾着袋を彼女はバッグにしまいました。夜道を自転車で駆けて彼女は自宅へ帰ろうとします。巾着袋の紐がゆるかったか、黒猫が紐をゆるめていたのか、種は袋からこぼれ出ました。失くした財布と同じように、種はバッグの穴からもこぼれ落ちます。バッグを載せた自転車のカゴもまた破れているものですから種はやがて地面へ蒔かれました。自転車の軌跡が青く輝きます。
鼻水をすすりながら、どうしようもない一日の終わりを彼女は振り返りました。うまくいかなかったこと、情けなく思ったことの一粒一粒から光る芽が出て、輝く蕾となり、青く煌めく数えきれない花々が、彼女の一筋の足跡に咲いています。月影に隠れた星々が、暗い街を彩っているようでした。素直に謝ればいいのに。そう思いながら、彼女は自転車を走らせます。ネモフィラ畑は夜の底を照らしました。
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