ぼんやり日記
愛は犬のかたちをして、ぼんやりと私の記憶にあります。あれがいつだったか、出会った場所がどこだったか、あの犬の名は何だったか。なにひとつはっきり覚えていないけれど、いまさら日記として、エッセイとして書き残しておきます。
私は働きはじめてから東京の目黒区へ越してきました。そのとき、目黒には誰も知り合いがおらず、休日はひとり部屋にいる気にもなれなくて、よく散歩をしたものです。家から近かった目黒通り沿いをあてもなく歩きました。
目黒通りはインテリアストリートと呼ばれるほど、多くの家具屋さんが建ち並んでいます。だから近くに住んでいたわけではありませんが、私は家具や雑貨が好きで、たいへん充実したおさんぽライフを送っていたように思います。
日記として残しておきたいあの一日も、私はきっとそうして散歩をしていたのでしょう。失礼ながらもう店名も思い出せない家具屋さんに、私は足を踏み入れました。いまはもう店を閉じてしまったようで、検索しても出てきません。
おそらくアンティークショップだったのではないでしょうか。古家具が店内に並んでいたような気がします。出迎えてくれたのは、初老の女性と一匹の犬でした。家具屋に犬がいるのは珍しいことです。大人しい犬だったのでしょう。
犬の名はハリーとしておきましょう。ほんとうにそういう名だった気もするし、まったく見当ちがいな気もします。ともかくもハリーは、初めて会った私に尻尾を振ってくれました。まだ街にも馴染んでいない私を温かく迎えてくれました。
店の女性は、ハリーがここまで知らない人に懐くのは珍しいと仰っていた気がしますが、これは記憶が曖昧なのをいいことに私が良いように物語をつくっている気配があります。しかし、ハリーはたしかに見ず知らずの私を愛してくれました。
人は何年もかけて愛を育みますが、犬は五秒で人を愛してくれます。狩猟採集時代からの相棒たる人類に、遺伝子レベルで好意をもってくれているからかもしれません。知人すらいない東京で孤独だった私は、ハリーのただ純粋な愛にふれました。
しばらく店でハリーと戯れて、しかし私は薄情なもので、とくに何も買わないまま店を出たのでしょう。なにかを買っていたならば、いまもそのなにかが家にあるはずですから。若かったのです。おゆるしください。
ぼんやりとした日記をここまで書いて、私は思います。さすがになにも覚えていなさすぎやしないかと。何年も経ってから、わざわざ記録に残そうとする一日にしては、記憶が曖昧すぎる。私はぼんやりと生きているのかもしれません。
けれど。犬の名も、店の名も、店があった詳しい場所も、それが具体的にいつのことだったかも、なにひとつはっきり思い出せはしないけれど、ただハリーの柔らかい温かさだけが心に残っているのです。
ほとんどのものごとを忘れたあと、それでも心に残っているものこそが、ほんとうに大切なことなのかもしれません。
そうやって記憶力のなさをごまかすために、それらしくまとめてみているのです。でも、いいかもしれない。ぼんやり日記。書いていると、自分にとって大切なことだけが、ぼんやり浮かび上がるような感覚があります。
みなさんもいかがでしょうか? ぼんやり日記。しっかりした文章を書くことに疲れたら、あるいは過ぎていく日々のスピードが早すぎると思ったとき、ほとんど覚えていないけれど、なぜか残しておきたい一日について綴るのです。
ぼんやり生きていくのも悪くありませんよ。
ではまた。
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