アジア紀行~インドネシア・タナトラジャ~サバイバル家族旅行note③~
スラウェシ島へ
3日目、バリ島の朝。
夜明け前に目が覚める。バリ島は赤道近くに位置する島なので、緯度の高い日本に比べて、年間を通じて日の出・日の入り時刻に変動が少ない。7月は6時半ごろになって、やっと日が昇り始める。
この日は 07:05 にデンパサール空港を飛び立つ飛行機に乗らなければいけないので、まっ暗なうちにみんな起き出す。
コテージの前に2人の男の姿!
我々を起こしに来てくれたホテルのスタッフだった。
「もう起きているから大丈夫。ありがとう」
ホテルのワゴン車で空港に向かったのが5時40分。東の空はまだ暗い。デンパサール空港でパンとジュースを買って朝ご飯にする。
ガルーダ航空のフライトは予定通り出発し、午前8時40分にスラウェシ島ウジュンパンダンにあるハサヌディン空港に到着した。
ウジュンパンダン( Ujung Pandang =マカッサル語で「椰子の岬」の意味)は現在では「マカッサル」と呼ばれている。もともとこの都市の名前はマカッサルだったが、1971年にウジュンパンダンに改名され、1999年に再び元のマカッサルに戻された。
ここまでは予定通りの行程だ。今回の旅はここからが本番だ。
リコンファーム
ハサヌディン空港の建物はさほど大きなものではなかった。ガルーダのカウンター付近は工事中で、狭いところにコンピュータが置いてある。まずここで、帰りのフライト「Ujung Pandang~Denpasar 26JUL(ガルーダ)」のリコンファームをする必要がある。日本を出るとき、このフライトだけが”RQ”だった。チケットを手配してくれたHK交通社のO君は「大丈夫でしょう」と楽観的だったが・・・。
ガルーダの係員はコンピュータに向かいながら、何度も首をひねっている。こちらから画面は見えないが、「大丈夫」ではないらしい。
中をのぞき込んで、「OK?」とたずねると、
「NOT OK!」
5日後に乗るはずの飛行機の搭乗者に、我々の名前がないというのだ。RQ(リクエスト)のまま席がとれなかったことが、現地に来て判明したわけだが、それじゃぁ、我々家族4人はどうなるの?
頭をフル回転して、次善の策を考える。と言っても、別の便を急遽予約するしかない。何日間かはこのスラウェシ島で過ごして、すでにOKが出ている「Denpasar~成田 31JUL・01AUG(ガルーダ)」に間に合う便を確保できればよしとするしかないだろう。この島でゆっくり過ごすのも悪くはない。
そのことをガルーダの係員に伝えて、可能な便を検索してもらう。
しかし、事はこちらの思い通り都合よくは進まないものだ。係員が「これなら行ける」と提示した便は、8月5日発の「Ujung Pandang~Denpasar」だった。今日は7月21日。なんと半月も先である。さらに「Denpasar~日本」の便も予約しなおさなければいけないが、8月6日の”エグゼクティブクラス”なら取れるという。しかし家族4人分の料金がまず気に掛かる。
とりあえずこの2便をおさえてもらって、この後できるだけ早くHK交通社のO君と連絡をとることを考える。
今の時代なら、メールでもLINEでも、簡単に連絡を取り合うことが可能だが、この頃は国際電話をする方法しかなかった。地球はまだまだ広かった。
もう一つ、重大なことがある。これから2週間、我々家族はこの未知の島で過ごさなければいけないことになったが、それが空白のままなのだ。頼みの綱は、この旅のそもそものスタートとなったフォトジャーナリスト・野沢正英氏に名前を教えてもらった「GENTO」という名前のガイドだけだ。グントは、仕事のないときは、空港のガルーダ食堂に待機しているという。彼に会えるかどうかは、運を天に任せるしかない。すでに天に見放されかけている我々だが、この先いったいどうなるのか・・・。