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10月の俳句(2023)

「神無月」は「神の月」

陰暦10月の異名は「神無月」。全国の神々が出雲大社に集まって、諸国が「神無しになる月」だから、と長年言われてきた。
しかし、最近はそれは〈俗説〉だとされている。
小学館の『日本国語大辞典』では、古来の語源説を紹介して、「神無月」の名前の由来を次のように説明する。

「な」は「の」の意で、「神の月」すなわち、神祭りの月の意か。

〈古来の語源説〉

(1) 諸神が出雲に集合し、他の地では神が不在になる月であるから〔奥義抄・名語記・日本釈名〕。
(2) 諸社に祭のない月であるからか〔徒然草・白石先生紳書〕。
(3) 陰神崩御の月であるから〔世諺問答・類聚名物考〕。
(4) カミナヅキ(雷無月)の意〔語意考・類聚名物考・年山紀聞〕。
(5) カミナヅキ(上無月)の義〔和爾雅・類聚名物考・滑稽雑談・北窓瑣談・古今要覧稿〕。
(6) カミナヅキ(神甞月)の義〔南留別志・黄昏随筆・和訓栞・日本古語大辞典=松岡静雄〕。
(7) 新穀で酒を醸すことから、カミナシヅキ(醸成月)の義〔嚶々筆語・大言海〕。
(8) カリネヅキ(刈稲月)の義〔兎園小説外集〕。
(9) カはキハ(黄葉)の反。ミナは皆の意。黄葉皆月の義〔名語記〕。
(10) ナにはナ(無)の意はない。神ノ月の意〔万葉集類林・東雅〕。
(11) 一年を二つに分ける考え方があり、ミナヅキ(六月)に対していま一度のミナヅキ、すなわち年末に近いミナヅキ、カミ(上)のミナヅキという意からカミナヅキと称された〔霜及び霜月=折口信夫〕。

巷では戦の絶えぬ神の月

日本人にとって、神は万物に宿っている。仏様のような形をもたない存在だ。そのおおらかさが好きだ。
しかし世界では、信仰する神や人種の違いが戦の原因になることもある。そこに過去の歴史や独裁者の思惑が絡まる。

10月の第二月曜は「スポーツの日」。昔は、東京オリンピックの開会式が行われた10日が「体育の日」だった。いつの間にか名前が変わっていた。競技での戦いは時にはワクワクするが、同じ日に不条理な戦で人が亡くなっている。毎日、ニュースを見るのがつらい。

スポーツの日どこかで人が死んでいる


「神無月」というと、いつも井上陽水の「神無月にかこまれて」という曲を思い出してしまう(たぶん昨年も)。「人恋しと泣けば十三夜 」でこの曲は始まる。
ところで、今年の十三夜(旧暦9月13日)は10月27日だった。この夜の月は「栗名月」とか「豆名月」と呼ばれ、古くから人々に愛でられてきた。
この日、コロナ禍以来久しぶりに、息子が帰省した。

久々に子を出迎えり十三夜

後戻りするが、「月」といえば、9月は中秋の名月を含めて二度の満月があった。9月29日が中秋の名月。その翌日から、十六夜・立待・居待・寝待と月の呼び名が変化する。10月3日が寝待月だった。

寝待月抹茶アイスをもう一つ

毎晩、風呂上がりにアイスを食べる習慣がやめられない。


天神川

天神川。天神社や天満宮に由来する川の名前だ。全国各地にあるその一つ、伊丹市の天神川の河原を歩いた。かつて行基が開発した昆陽池への取水のために、用水路として開削されたのが始まりだという。土手には雑草が生い茂り、晴れの日が続くいま、川には水がない。

花芒はなすすき水なき川の風に揺れ

穂すすきや揺れる心の懐かしき

緑の中に黄色が見える。セイタカアワダチソウだ。まだ花が開く前の蕾のようだ。この植物は河原や空き地などに群生し、一時は悪者扱いされていたが、最近はそうでもないようだ。冷たい秋風が吹く、彩りの少ない河原では貴重な色彩だ。

その黄色留めおきたし泡立草

天神川ではないけれど、大阪天満宮で催された「天神さんの古本まつり」に行った。最終日の午後で、人はそれほど多くなく、限られた時間だったが、ゆっくりと本を選ぶことができた。

天神に秋の日差しや古書の市


秋の庭

10月は「秋」を感じる月だった。夏の猛暑がいつまでも続いたので、朝晩の涼しさがうれしかった。すぐにカラカラになった我が家の庭も、毎日水やりをしなくても大丈夫な季節になった。
ある日、庭に出ていると、腕にチクッと痛みを感じた。蚊である。知らないうちに刺されていることもあるが、この痛み、蚊が憎らしくなる。「秋の蚊」という言葉を思い浮かべる。

秋の蚊の執拗しゆうねき庭に水を撒く

歳時記を見ると、「秋の蚊」という季語があった。暑い夏を過ごし、生き残りをかけてメスは産卵するそうだ。チクッとした痛みは子孫を残すための営みの結果だったのか。しかし、痒い。

庭の片隅にシソが植わってる。元は孫が植木鉢に種をまいて育てたものだが、水やりを忘れて枯れかけていたのを庭の隅に植え替えた。葉を摘むことは一度もなかったが、秋になって花が咲いた。そこにどこからかバッタがやってきて葉を食べる。

秋晴れやばった親子の日向ぼこ

隣家の庭に柘榴の木がある。柘榴は不思議な魅力を感じさせる植物だ。果実が熟して割れると赤い種子がのぞく。はじける前の柘榴は、はちきれそうな艶やかな表皮がまぶしいくらいだ。
手を伸ばして触ってみたくなるけれど、「李下に冠を正さず」の言葉が頭に浮かぶ。

手を伸べてとれぬ隣の柘榴かな

隣の芝生は青い、隣の柘榴は美味しそう!

マンション中庭に業者が入って樹木を剪定した。どの木をどんなふうに剪定するのかは、専門のノウハウがあるのだろう。しかし枝をバッサリと切られた木は寂しそうに見える。空の青さが目に染みる。

剪定という名の裸木秋の空

秋の空

秋になって、よく空を見る。青空もきれいだが、雲がおもしろい。うろこ雲、いわし雲、ひつじ雲、すじ雲・・・。真夏の入道雲とはまったく異なる軽やかな白い雲は、見上げていて爽やかな心地がする。

天を切る一筋の雲秋深し


京都駅ビルの7階東広場に一台のグランドピアノが置かれている。いまはやりの駅ピアノだ。西側はデパートがあって人も多いが、この東広場はいつも閑散としている。しかし、いつ行っても誰かがピアノを演奏している。窓の外に北山の連山が見え、雲が流れている。

駅ピアノ流れる空に雲動く

大阪北部の箕面の山に、「エキスポ ’90 みのお記念の森」がある。大阪市の鶴見緑地で開催された「花博」を記念してつくられた大きな森である。山の上の芝生広場は気持ちのいい空間だ。

杉檜ここだけ丸き秋の空


このnoteで、「大阪市の神社と狛犬」を連載している。大阪市24区最北部の東淀川区からスタートして、今は16区目の天王寺区に入っている。南に行くほど自宅から遠ざかり、未訪問の神社が増える。天王寺区の神社はほぼすべて参拝していたが、秋の一日、確認のために数社を訪れた。
四天王寺の南東に、四天王寺七宮の一つ久保神社がある。拝殿前に青銅製の狛犬があった。昭和10年の奉献だが、戦時中の金属類回収令も免れ、勇ましい姿をとどめていた。

口開けて狛犬の歯見る秋の空

口を開けるのは社殿の左側の阿形。見上げると秋の空がまぶしい。目をしかめて口を開けてしまう自分。

秋の空は空気が澄んでいるので、青空だけでなく夕焼けもまた美しい。
清少納言は『枕草子』で、「秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いとちかうなりたるに、からすのねどころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛びいそぐさへあはれなり」と記している。

秋の暮西方浄土が燃えている


秋の夜

秋の夜はつるべ落とし。あっという間に暗くなる。家の近くにある小学校の塀沿いの道を歩いていると、甘い香りが漂ってくる。暗闇で視力が効かなくなると、ほかの感覚が鋭くなる。
あっ、金木犀の香り?
しかし、暗くて香りの源がどこにあるのかわからない。目を凝らして金網の塀の内側を見ると、金木犀のオレンジの小花があった。

木犀の香り誘う夜の闇


秋は祭りの季節でもある。地元の伊射奈岐神社でも秋祭りがあり、3年ぶりに太鼓神輿の巡幸が行われた。夜、旧村の道を通って神社に向かった。旧家の門前には、昔ながらのご神燈が吊してある。

ご神燈ここだけ古き祭りあり

正面参道から神社にお参りする。所狭しと屋台が並んでいる。階段を上った先にある拝殿前にはあまり人がいない。大勢の人が行き来しているのは、屋台の周辺だけだ。おまけに若者や子どもばかり。早々に退散する。帰り道、再びご神燈が掲げられた家の前を通る。ここだけは昔ながらの祭りが残っているという気がした。


月末がやって来て「今月の俳句」を書くときになると、ひと月が過ぎるはやさを感じます。同時に、俳句と写真を通じて1ヶ月を振り返ると、季節の移り変わりに驚き、今月もいろんなことがあったのだとあらためて思います。10月も残すところあと一日になりました。珍しく早く書き上げたので、本日投稿いたします。

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