大阪市の神社と狛犬 ㉒住吉区 ①住吉大社(その4)~大阪最古、人面の石造参道狛犬~
大阪市住吉区の地図と神社
大阪市には、現在24の行政区があります。住吉区は、大阪市の最南部に位置し、大和川を隔てた南は堺市になります。この辺りは、古代には「すみのえ」と呼ばれた海に面した地域で、海上安全の守護神として名高い住吉大社とともに栄えてきました。また、大阪と泉州・紀州を結ぶ紀州街道や熊野街道などの交通の要衝でもありました。
住吉区には由緒ある古い神社がいくつもありますが、まずは摂津国一之宮である住吉大社へお参りするところから始めたいと思います。大阪人にとっては「すみよっさん」と親しまれている神社です。今回は住吉大社の4回目(その4)になります。
住吉大社のすぐ前の道路には、阪堺線の「住吉鳥居前駅」があります。また、この道路を挟んで西側に南海本線「住吉大社駅」があり、交通の便に恵まれています。
住吉大社
■所在地 〒558-0045 大阪市住吉区住吉2-9-89
■主祭神 底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命(神功皇后)
住吉大社には10対を超える狛犬が安置されている。上の境内図の反橋(太鼓橋)の手前、赤色の▲で示した場所に、今回の狛犬4がある。
狛犬4
■奉献年 元文元丙辰六月吉旦(1736)
■作者 堺石工 男里屋市兵衛
■材質 花崗岩
■設置 反橋手前
正面の大鳥居を潜り、左右にある絵馬殿を見ながら参道を進むと、すぐそこに有名な太鼓橋がある。正式には「反橋」というそうだが、ここでは通称で呼んでおこう。この太鼓橋のたもとに、住吉大社で最も古い石造狛犬が置かれている。
この狛犬は、住吉大社だけでなく、石造の参道狛犬としては大阪で最も古い狛犬である。正面鳥居前の狛犬と同様、これもまた大きくて、古社を守るにふさわしい風格を備えている。阿形の像高が128cm、吽形が138cmで、台座の高さも含めると3m近くになる。
阿吽の2体は、対面する形で座しながら、上体の重心をわずかに参道正面側の脚にかけている。頭もやや前傾気味で、はなはだ人間的な顔が印象的である。
太くて長い眉の奥に大きな目があり、中央に丸い瞳も彫られている。眉間に刻まれた数本の深い皺が、顔の表情を厳しく見せている。どっしりとした鼻と大きく横に開いた口を持っているが、この鼻や口が前に突き出ていないことが、結果的に人面顔を作っているのだろう。どちらも大きな耳を持ち、阿形は垂れ耳、吽形は立ち耳で、左右で変化をつけている。
双方とも長毛の束が、後頭部から背中と胸の両側に流れ、巻き毛は阿形のほうが多い。太い前肢は、力強く安定しており、尻尾は、山型になった5本の立ち尾に4本の蕨状の毛が重なる形で、背中に浮き彫りされている。吽形の頭上には小さい角がある。
台座は立派な4段積みで、上から2段目には連子入りの格狭間が彫られている。3段目の正面には大きく「堺講中」とあり、その反対側には堺商人と思われる大勢の講中の人々の名前が刻されている。
さらに3段目の別の面(下の写真)には、「元文元丙辰六月吉旦」「取次 山上金太夫」と彫られている。元文元年は、桜町天皇の即位に伴って享保から改元された年で、西暦では1736年になる。
堺石工 男里屋市兵衛
狛犬の第4台座に、「堺石工 男里屋市兵衛」という石工銘が刻まれている。この人面狛犬の作者である。
現在の大阪府泉南市に「男里」という地名がある。和泉山脈に端を発し、泉南市と阪南市の境を流れて大阪湾に注ぐのが男里川だ。下流には平野が広がり、右岸はかつては男里村と呼ばれていた。弥生時代から中世までの複合遺跡があり、早くから開かれた土地であったことがわかる。
泉南市から男里川を挟んだ位置にある阪南市の山手には、かつて和泉砂岩の石切場があって、『和泉名所図会』(下の図)にも「名産和泉石」として紹介されている。当然、優秀な技術を持った石工や石屋が数多くいただろう。「男里屋」もそのような石屋の一つで、堺商人から狛犬奉献の注文を受けることがあった。この住吉大社の狛犬の石材は地元の和泉砂岩ではなく、御影から取り寄せた花崗岩だと思われるが、それが幸運にも保存状態のよさにつながったのだろう。
住吉型狛犬
住吉大社にはたくさんの狛犬があるが、その中でこの元文元年の石造狛犬を祖とする同系統の人面狛犬は、特に「住吉型狛犬」という呼び名で分類されている。堺市堺区宿院町にある住吉大社宿院頓宮の寛保3年(1743)銘の狛犬を初めとして、同じ堺市の野々宮神社、百舌鳥八幡宮、金岡神社、そして大阪市平野区の志紀長吉神社など、堺市と大阪市南部の約十社で見ることができる。
本シリーズは「大阪市の神社と狛犬」なので、堺市の狛犬は登場しないが、ここでは「ふとん太鼓」で有名な堺市北区の百舌鳥八幡宮の狛犬の写真を紹介しておきたい。
太鼓橋手前の人面狛犬の話は、今回はこれくらいにしておこう。ただし、住吉大社の名物とも言われる太鼓橋について、補足しておきたい。
太鼓橋
住吉大社の元文元年(1736)の人面狛犬から約60年後の寛政年間に、『摂津名所図会』という摂津国の名所を絵画と文章で紹介した案内書が発行された。住吉大社の神池に架かる橋の手前を見ると、狛犬が描かれている。おそらく、今回の狛犬4であろう。
橋は、現在も同じ形の太鼓橋である。先にも書いたが、「太鼓橋」という呼び名は通称で、住吉大社では「反橋」と呼んでいる。この橋は長さが約20m、中央部の高さが約4・4mあり、渡ってみると、大きく反った橋であることが実感できる。石の橋脚は、慶長年間に豊臣秀吉の側室であった淀君が奉納したものであるといわれている。
幕末に大坂の版元から発行された「浪華百景」は、3人の浮世絵師によって描かれた100枚の風景浮世絵から成るが、その中に中井芳瀧によって描かれた「住吉反橋」がある。誇張されて大きく半円形に反った橋の様子がおもしろい。
この反橋を渡って、次の鳥居の手前を右に少し行ったところに、大阪出身のノーベル文学賞作家、川端康成の文学碑がある。そこには次のような一節が彫られている。
これは川端康成の戦後間もない頃の短編『反橋』の一節である。昭和23年に発表されたこの小説は、続いて翌年に発表された『しぐれ』『住吉』と合わせて三部作と言われ、夢とも現とも判然としない幼年時の記憶が綴られている。
5歳の「私」は、母に手をひかれて住吉へ参り、母とともに橋を渡る。のぼる前は、おそろしく高くて迫るように思われた反橋も、のぼってみると案外こわくなく、「私」は「橋の頂上で得意の絶頂」になる。そんなときに、母は「私」の「出生の秘密」を明かす。「私」は母の実の子ではなく、先ごろ死んだ母の姉の子だと告げるのである。
「得意の絶頂」にいた「私」は、「母」の残酷とも言える打ち明け話によって、一気に奈落の底に突き落とされてしまう。「反橋は上るよりもおりる方がこはいものです」という述懐は、そのような「私」の心理を象徴しているのだろう。
反橋は神の橋である。参道を通って神域へと近づく参詣人にとって、鳥居が「潜る」ことによって俗から聖の世界へ足を踏み入れる結界であるように、反橋も「渡る」という行為によって神聖な世界にさらに近づくための結界だった。反橋の頂上は、まさに異界との境界線といえる。
その場所で、今まで実の母だと信じて疑わなかった人からの突然の告白。幼心に与えた衝撃と影響は計り知れない。小説『反橋』には、この後、次のような一文がある。