けふをかぎりのいのちともがな
なぜか本棚に
本棚の上から二段目。いつからか百人一首の取り札が1枚置かれたままになっている。
この札はどこから来たのだろうか。孫たちと時々遊ぶ百人一首の札はすべてそろっている。
(訳)今日を限りに私の命が尽きてしまえばいいのに
病気の身には、ちょっと切実な響きがあるが、もちろん、これっぽっちもそんなことは思っていない。この歌は、藤原定家が選んだ「小倉百人一首」の54番目、儀同三司母が詠んだ歌の下の句である。
この百人一首の札は、僕が高校1年生の冬に、父に頼んで買ってもらったものだ。あれからもう60年近くも経っているが、三代にわたって役に立っている。
この歌の上の句は「忘れじの行末までは難ければ」。
「忘れじ」は男の言葉である。
「あなたのことは、いつまでも忘れないよ」と男は言う。
しかし女は、男の心がいつまでも変わらないとは思えない。その言葉を聞いた幸せな今日を限りに私の命が尽きてしまえばいいのに、と女は思う。
ところで、この男って、誰?
中関白と貴子
実はこの歌は、『新古今和歌集』巻十三 (恋歌三)にも、儀同三司母の歌として採られている。この歌には、次のような詞書がある。
(訳)中関白が、女のもとに通い始めましたころ
女に「忘れじ」と語ったのは、中関白すなわち藤原道隆だった。もちろんこの頃はまだ関白職にはついておらず、兵衛府の次官だったと思われる。
大河ドラマ「光る君へ」では、井浦新さんが演じていましたね。
「忘れじの」の歌は、藤原道隆がまだ若かったころ、この歌の作者の女のもとに通い始めたときに詠まれたものだ。
女の名前は、高階貴子。平安中期の公卿、高階成忠の娘である。円融天皇の内侍として出仕し、「高内侍」と呼ばれた。道隆が見初めたのはこの頃ではなかろうか。
やがて貴子は道隆の妻となり、三男四女を生んだ。その中には、内大臣伊周や、清少納言が女房として仕えた中宮定子がいる。
あまり目立たないけれど、歴史上、重大な役割を果たした人物といえるだろう。
貴子が「儀同三司母」と呼ばれるのは、息子伊周の官職「准大臣」の唐名「儀同三司」による。この時代の女性は、本名が表に出ないことが多い。
「光る君へ」では、紫式部のことを「まひろ」という名で呼んでいるが、これはドラマ用のフィクションである。紫式部の当初の女房名は「藤式部」で、父の藤原為時の官職が式部丞であったことから、そのように呼ばれたという。清原氏出身の清少納言も同様である。
百人一首には21人の女性歌人が登場するが、女帝(持統天皇)、内親王(式子内親王)以外は17人の女房(すべて女房名)、そして「右大将道綱母」と「儀同三司母」である。本名が記されているのは、後白河天皇の第3皇女である式子内親王だけだ。
道隆と貴子は、子宝にも恵まれ、仲の良い夫婦であったようだ。道隆が生まれたのは天暦7年(953)で、貴子との間に伊周が誕生したのが天延2年(974)であることから、2人が結ばれたのは、道隆が20歳ごろのことだろう。伊周誕生の2年後の貞元元年(976)には定子が生まれる。
ところで、道隆の妻は貴子1人ではなかった。Wikipediaによると、貴子を含めて5人の妻がおり、子どもも15人の名前が並んでいる。なかなかの発展家というべきか。ちなみに道隆の弟である道長の場合は、6人の妻と13人の子どもの名前が記されていた。
『後拾遺和歌集』巻十六(雑二)には、「高内侍」の名前で、歌が一首採られているが、そこには次のような詞書がある。
(訳)中関白が、私の元に通い始めましたころ、夜離れしました朝方、「今宵はあなたと別々に寝たために、夜明けがとても長く感じましたよ」などと私に言ってよこしましたので、詠んだ歌
「通ひはじめ侍りけるころ」とあるので、先の「忘れじの」の歌が詠まれたのと同じころと思われる。「夜がれ」というのは、男が女の元に通わないことをいう。
この詞書のあとに、次の歌が載せられている。
(訳)独り寝をする人は、秋の夜の長さを知っているでしょう。でも、独り寝をしたこともないあなたに、秋の夜は長いなんて、いったい誰が教えたんでしょうか。
貴子は、「あなたと一緒でないので、今宵は夜明けがとても長く感じましたよ」と言ってきた道隆の言葉を信用していない。きっと他の女と共に過ごしたのだろうと考えている。
貴子がまだ道隆の正妻として落ち着く以前のことだろう。道隆もいろんな女性のもとに通って、選んでいたのかもしれない。歌に、貴子の嫉妬心が垣間見えておもしろい。しかし、それほどの切実さが感じられないのは、貴子が道隆の愛情に確信を持っていたからだろうか。
道隆が関白の職についたのは、正暦元年(990)のことだった。この年、道隆は定子を一条天皇の女御として入内させ、病の父兼家に代わって関白となった。兼家はこの年に死去する。62歳だった。当時としては長生きの部類に入る。
一方道隆は、関白になって6年目、長徳元年(995)に亡くなる。この頃は疫病が大流行するが、道隆の死因は疫病ではなく、酒の飲み過ぎによる病気だと『大鏡』に記されている。道隆は酒好きで明るい人物であったらしい。
最近読んだ『病が語る日本史』(酒井シヅ)によると、当時の藤原一族には糖尿病(飲水病)の人が多かったという。道長もそうだが、この道隆も糖尿病で苦しんだらしい。晩年は参内することすらままならなかった。享年43歳。今なら働き盛りの年齢だ。
道隆の死を機に、貴子は出家するが、息子の伊周と隆家が叔父道長との政争に敗れ、心痛も多く、病を得て、翌長徳2年(996)生涯を閉じた。