龍谷ミュージアム 春季特別展「文明の十字路・バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰-ガンダーラから日本へ-」~展覧会#59~
文明の十字路
「文明の十字路」という言葉をときどき聞く。東西文明の交わるところという意味だろう。具体的にどこの国と限定することは難しいが、一般的には中央アジアとその周辺の地域を指すと思われる。
古代における東西の交通路・通商路といえば、シルクロードである。あの玄奘三蔵も、インドの経典を求めてこのシルクロードをたどった。
玄奘の旅は『大唐西域記』に詳しく記されているが、唐の長安を出発したのは629年のことだという。出国の禁を犯しての旅立ちだった。天山山脈を越えて、現在のキルギス、ウズベキスタン、アフガニスタンを通るという長く厳しい西域の旅の果てにやっとインドに入り、仏教の聖地ナーランダーに到着するまで約4年の歳月を要した。
玄奘は、ヒンドゥークシュ山脈の2500mを越える高地にあるバーミヤンも訪れている。『大唐西域記』には次のような内容が記されている。
玄奘がバーミヤンを訪れたのは、この地に伝わった仏教がもっとも繁栄していた時期かもしれない。岩壁に穿たれた東西の大仏は金色に輝き、美しく飾られていた。しかし7世紀後半には、偶像崇拝を嫌うイスラム教が、早くもこの地に進出する。
東西の大仏が壊滅的な打撃を受けた事件は、まだ記憶に新しい。2001年、イスラム原理主義のタリバーン政権により、二つの大仏は爆破されてしまった。
東西の大仏と壁画
玄奘は、東の大仏については「鍮石の釈迦仏の立像あり、高さ百余尺」と、これが釈迦仏であると記しているが、西の大仏については「王城の東北の山阿に立仏の石像あり、高さ百四五十尺。」としか記していない。阿弥陀如来とも大日如来とも、弥勒仏とも言われるが、はっきりしない。
ところで、東の大仏が「鍮石」製であるとはどういうことだろうか。石像ではなかったということか。「鍮石(ちゅうじゃく・とうせき・ちゅうせき)」とは「真鍮」のことである。別名、黄銅ともいう。
現地の人は、高さ55mの西の大仏を「パーダル」(父)と呼び、800mほど離れた場所にある高さ38mの東の大仏を「マーダル」(母)と呼んでいたそうだ。彼らにとって、大仏の種類などは問題ではなく、生まれたときからすでにそこに存在していた偉大な守り神のようなものだったのだろう。
岩壁を刳り抜いて造った龕の中に大仏は造像されているが、玄奘が書き残しているように、当初は金や彩色が施されていた。そして龕の天井や壁にも絵が描かれていた。タリバーンによる破壊によって、これらの仏画も消えてしまったが、バーミヤンにはそれ以前から各国の調査団が入っており、日本からも早くから大学の調査隊が訪れて記録を残していた。
今回の龍谷ミュージアムの展覧会は、大仏の周囲に描かれた「太陽神」と「弥勒」の壁画から、中央アジアで発展した弥勒信仰が東アジアへ展開する流れを紹介するものである。
展覧会の構成と作品
会場内は残念ながら撮影禁止なので、龍谷ミュージアムの本展解説ホームページにある「主な展示作品」をそのまま次に紹介する。
今回の展覧会の中心は「バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰」だが、先にも述べたように、大仏と貴重な壁画はすでに破壊されてしまった。しかし、かつて日本の調査隊が撮影した写真や調査資料をもとにして、壁画の新たな描き起こし図が作られた。名古屋大学・龍谷大学名誉教授の宮治昭氏による監修のもと、京都市立芸術大学の正垣雅子氏が描いたものである。本展は、この新たな描き起こし図の完成を記念したもので、その精緻な原図が展示されている。
《バーミヤン大仏龕壁画 描き起こし図》
この天井画については、東京藝術大学が取り組んでいるクローン文化財で見ることができる。これは以前、TBSテレビの番組「日立 世界ふしぎ発見!」でも放映されたことがある。
正面を向いて描かれているのは、ゾロアスター教の太陽神「ミスラ」である。「ミスラ」は「ミトラ」とも呼ばれ、古代イランのアーリヤ人や古代ローマ人にも信仰されていた。
この図は、馬車に乗って天空を駆けるミスラの姿をあらわしていて、上部左右には風神を配している。ミスラ神の下に描かれているのは背中に羽のある天使のようだ。左右に並ぶのは、バーミヤンの王侯貴族だろうか。
仏像の真上に異教の神が描かれていることに違和感を覚えるが、これこそ当時のバーミヤンの人々の信仰のあり方だったのだろう。
インドで太陽神といえば「スーリヤ」である。一般的に、金髪に3つの目と4本の腕を持つ姿であらわされ、7頭立ての戦車に乗っている。
一方、西大仏の天井や側壁には、弥勒菩薩が住む天上世界「兜率天」などが描かれていたが、20世紀初期にはほとんど剝落していたという。かつて日本の調査隊が撮影した写真をデジタル技術で合成し、復元して描いたものがもう1枚の図である。
弥勒は、現在仏である釈迦牟尼仏の次に覚者となることが約束された菩薩で、釈迦の入滅後56億7千万年後の未来にこの世に現われ、多くの人々を救済するとされる未来仏である。それまでは兜率天で修行しているといわれる。
《アジアに広がる弥勒信仰~弥勒信仰、日本へ》
弥勒信仰は、インドから中央アジア、東アジアへと拡がり、中国の石窟寺院でも盛んに弥勒菩薩像が造られた。
この像は、平山郁夫シルクロード美術館の所蔵である。ギリシア風の容貌で、髪の一部を頭頂に結び、残りを垂髪にした祭司形の菩薩像である。両腕の先が欠損しているが、左手におそらく水瓶を持った弥勒菩薩であろう。交脚は遊牧民の王侯像に由来する。
この姿は中国にも伝わり、古いものでは、敦煌莫高窟第275窟の交脚弥勒菩薩像が有名である。雲崗の石窟にも、交脚弥勒菩薩像が多数彫られている。
次の写真は、台東区立書道博物館所蔵の菩薩半跏思惟像である。中国・東魏時代のもので、武定2年(544)の銘がある。獅子座に坐している。
我が国では、奈良の中宮寺や京都の広隆寺の菩薩半跏思惟像が有名だが、スタイル的にはまったく同じである。
今回の展覧会では、久しぶりに野中寺の金銅弥勒菩薩半跏像と対面した。野中寺は大阪府羽曳野市にある真言宗の寺院である。初めてこの仏様と出会ったのは、もう半世紀も前のことで、お願いして厨子の扉を開いて拝ませてもらった。現在は毎月18日に公開されているそうだ。
この弥勒菩薩半跏像の台座には、2字×31行の銘文が刻印されていて、その最初に「丙寅年四月大○八日癸卯開記」とある。「丙寅年」は天智5年(666)と考えられている。
飛鳥・白鳳・天平の頃には、このような小型の金銅仏が多数造られたが、その中でも在銘のこの弥勒菩薩半跏像は重要である。
これらのほかにも、法隆寺の弥勒菩薩坐像(平安時代・重文)、和歌山・霊現寺の弥勒菩薩立像をはじめ、たくさんの弥勒菩薩像が展示されている。
展示会場は、ミュージアムの2階と3階の2室ですが、かなり見応えがあります。2階の展示はかなり熱心に観たので、ここだけで1時間半経過。かなり疲れます。3階のシアターで「文明の十字路 バーミヤン」の上映が30分ごとにあるので、ここが休憩の場になるかも。私は2回みました。3階の展示は少し急ぎ足で観ましたが、それでもトータル2時間半ぐらいはかかりました。観客が少ないので、ゆっくり楽しめますね。