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あべのハルカス美術館 開館10周年記念 「円空ー旅して、彫って、祈ってー」~展覧会#50~
円空展初日観覧
あべのハルカス美術館で円空展が開催された初日に行ってきた。金曜日の午前で、混雑はしていないものの、それなりの観客が入っていた。
円空の作品を初めてまとめて観たのは、今から40年以上前、1980年に心斎橋そごう大阪店で開催された「野生の芸術 円空展」だった。会場には二百数十点の円空仏が展示されていて、その素朴さと力強さに惹かれて、一気にファンになった。その後も少しずつ観る機会があったが、今回久しぶりにまとめて円空作品を楽しむことができた。
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第1章 旅の始まり
円空は遊行僧である。一所に定住することをせず、北海道から九州まで、円空の足跡は幅広く残っている。
円空は、寛永9年(1632)に美濃国で誕生した。若くして出家し、生涯に12万体の仏を彫ることを誓願したという。円空について記された書物に、寛政2年(1790)に出版された『近世畸人伝』がある。
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僧円空は、美濃国竹が鼻といふ所の人也。稚きより出家し、某の寺にありしが、廿三にて遁れ出、富士山に籠り、又加賀白山にこもる。ある夜白山権現の示現ありて、美濃のくに池尻弥勒寺再建のことを仰たまふよしにて至りしが、いくほどなく成就しければ、そこにも止らず、飛騨の袈裟山千光寺といへるに遊ぶ。其袈裟にありける僧俊乗といへるは、世に無我の人にて交善ければ也。円空もてるものは鉈一丁のみ。常にこれをもて仏像を刻むを所作とす。袈裟山にも立ちながらの枯木をもて作れる二王あり。今是を見るに仏作のごとしとかや。又あらかじめ人の来るを知る。又人を見、家を見ては、或は久しくたもつべし、或はいくほどなく衰べしといへるに、ひとつもたがふことなし。或時、此国高山の府、金森侯の居城をさして、此所に城気なしといへるに、一両年の間に、侯、出羽へ国がへありて、城は外郭斗となりぬ。また大丹生といへる池は、池の主、人をとるとて、常に人ひとりはゆかず、二人ゆけば故なしといへり。さるにあるとき円空見て、此水この比にあせて、あやしきことあり。国中大に災にかゝるべしといひしかば、もとより其ふしぎを知る故に、人々驚き、いかにもして此難を救ひ給へと願ひしかば、やがて彼鉈にて、千体の仏像を不日に作て池に沈む。其後何の故もなく、はた是よりは、ひとり行人もとらるゝこと止みけりとなん。この国より東に遊び、蝦夷の地に渡り、仏の道しらぬ所にて、法を説て化度せられければ、その地のひとは今に至りて、今釈迦と名づけて、余光をたふとむと聞ゆ。後美濃の池尻にかへりて終をとれり。美濃、飛騨の間にては、窟上人といひならへるは、窟に住る故かも。
『近世畸人伝』の挿絵に、立木に鉈で仏を彫る円空の姿が描かれている。文中に「袈裟山にも立ちながらの枯木をもて作れる二王あり」と紹介されているものと思われる作品が、会場入口に展示されていた。(撮影可)
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第2章 修行の旅
40代頃の円空は、岐阜や愛知を中心に、三重や奈良でも修行を積み重ねている。こうした中で、円空の彫刻の作風は徐々に変化し、なめらなかな表面を持つ初期の作風から、よりごつごつとした、大胆な作風となっている。
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第3章 神の声を聴きながら
48歳の時、「円空の彫る像は仏そのものである」との白山神の託宣を受け、関東にも赴いていっそう盛んに造仏活動を行っていった。この章では、円空のさらなる作風の変化をたどるとともに、滋賀県・園城寺の《善女龍王立像》をはじめ、力のみなぎった50歳前後の円空の作品が紹介されている。
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第4章 祈りの森
円空は、飛騨・千光寺の住職であった舜乗と交友を持ち、しばしば千光寺に滞在して彫刻を手がけた。この頃が、円空の制作活動のもっとも充実した時期にあたっている。千光寺には《両面宿儺坐像》を初めとして、円空が54歳頃に制作したと思われる仏が多数伝わっている。展覧会入口に展示されていた、地面に生えたままの樹木を彫って作ったとされる《金剛力士(仁王)立像》も、この時期の作品である。この展示室のみ、ほぼ撮影可であった。
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第5章 旅の終わり
いよいよ最終章である。ここでは、円空晩年の約10年間の作品が集まる。
円空は12万体の仏を彫ると誓願したが、元禄3年(1690)作成の、岐阜県・桂峯寺の《今上皇帝立像》の背面に「當国万仏十マ仏作也」と墨書銘を記している。この銘文は、「十万体の仏を彫り上げた」ということだろうか。
元禄5年(1692)、岐阜県・高賀神社でつくられた《十一面観音菩薩立像》および《善女龍王像》《善財童子像》が、現存する円空仏の最後のものとなる。その3年後、円空は64歳でその生涯を終える。
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現存する円空仏は五千数百体だと言われている。そのうち愛知県内で三千体以上、岐阜県内で千体以上を数える。これだけでも相当な数だが、今後もまだ、あらたな円空仏が発見される可能性があるだろう。
展覧会では多くの寺社などからたくさんの円空仏が出展されていて、それを一堂に観ることができるのは、たいへん貴重な機会である。しかしその一方で、この素朴な仏を、明るい蛍光灯のもとではなく、寺社の薄暗がりの中で味わいたいという気持ちも湧いてきた。そんな日がいつか来ますように。
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