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大阪市の神社と狛犬 ⑪中央区 ⑫玉造稲荷神社~お稲荷さんの狛犬~
大阪市中央区の地図と神社
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大阪市には、現在24の行政区があります。中央区は、かつての東区と南区が合区となって1989年に発足した新しい区です。大阪市のほぼ中央にあり、上町台地とその西側の地域になります。この区には、大阪府庁などの官公庁街、船場と呼ばれる商業街、ミナミと呼ばれる繁華街などに加えて、大阪城や難波宮跡などの歴史的建造物もあります。
中央区には、生國魂神社行宮を含めて11社の神社があります。さらに、神社ではありませんが、大阪城公園内に明代の中国獅子があります。この12箇所について、順次紹介したいと思います。
今回は、いよいよ最後の一社、玉造稲荷神社です。JR大阪環状線森ノ宮駅からは南西に、玉造駅からは北西に、それぞれ徒歩で約10分ほどの場所に鎮座しています。長堀通り沿いには、玉造稲荷神社の分社もあります。
玉造稲荷神社
■所在地 〒540-0004 大阪市中央区玉造2-3-8
■主祭神 宇迦之御魂大神
■由緒 社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)創建とされ、古代には玉作部の居住地にもなった。仏教受容を巡って物部氏と争った聖徳太子は、この地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたといわれている。豊臣の時代には大坂城の鎮守社となったが、戦乱で荒廃・焼失、徳川時代に再建されて、引き続き大坂城の鎮守とされ、豊津稲荷社と称した。
その後社殿は幕末の大坂大火(新町焼)でも焼失し、明治に入って再建されるが、昭和20年(1945)の大阪大空襲でまたもや焼けてしまう。現在の社殿は昭和29年(1954)10月に再建されたものである。
なお、玉造稲荷神社という社名になったのは戦後のことである。
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狛犬1
■奉献年 大正四年十一月 御大典記念(1915)
■石工 東堀末吉橋 石匠 石崎藤三郎
■材質 花崗岩
■設置 拝殿前
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稲荷神社とはいうものの、拝殿前には石造の狛犬が安置されている。作者は台座の銘から、東横堀川にかかる末吉橋辺りの石匠、石崎藤三郎という人物である。東横堀川は大阪市では最も古い堀川で、末吉橋は江戸時代初期に活躍した豪商末吉孫左衛門が架けたと伝えられている。この堀川沿いには、かつてはたくさんの石屋があった。
この狛犬は、大正4年に行われた大正天皇の御大典(即位の礼と大嘗祭)を記念して、地元の人たちによって奉納されたものだ。
分厚いたてがみや、阿形の口に見える三角形の舌などは、この頃の狛犬のスタイルと言ってよいだろう。第一台座と基壇との間に、猫足台座を置くところが珍しい。
境内案内
新山稲荷社・万慶稲荷社
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こちらには、稲荷神のお使いの狐像がいっぱい。
胞衣塚大明神
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この地はもと大坂城三の丸に当たり、ここに豊臣秀頼の胞衣が埋められたという。豊臣秀頼は戦国時代に荒廃した当社を、慶長8年(1603)に再建した人物だ。境内には、豊臣秀頼の像が建てられている。
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豊臣秀頼公奉納の鳥居
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慶長8年(1603)に、豊臣秀頼が当社を再建したときの石鳥居が残っている。大坂夏の陣(1615)と第2次世界大戦の大阪大空襲(1945)という大きな試練にも耐えた鳥居だったが、阪神淡路大震災(1995)の激震には耐えきれなかった。
聖徳太子 偲び石
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この地は聖徳太子が観音堂を建てたところと伝えられているが、この石は観音堂の遺物だと言われている。元禄14年(1701)に完成した摂津国の地誌『摂陽群談』に、「大阪順礼十番 観音堂 同郡玉造稲荷ノ社地ニアリ」と記されている。
お伊勢参りの玄関口
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伊勢参りが流行した当時の玉造は、大坂以西の伊勢参り出発地で、たいへん賑わっていたという。町には市場や茶店、菅笠屋等の旅支度を整える店が軒を並べ、道中の安全を当神社で祈願した旅人らが、暗峠を目指し旅立って行った。また、江戸などからの旅人は伊勢参りを終えた後、遊楽地を求めてさらに足をのばし、大坂へも立ち寄った。その玄関口としての役割も玉造は担っていた。
玉造稲荷神社分社
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平成元年(1989)、創祀二千年祭が挙行された際に、近くの長堀通り沿いに玉造稲荷神社の分社が建立された。
道路を挟んだちょうど向かい側は、私の母校清水谷高校です。
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今回で大阪市中央区の神社と狛犬の紹介が終わりました。大阪24区のうち11区目の終了です。次回は西区に入ります。
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