2025年1月の俳句
去年今年
年が暮れ、年が明け、そしてもう1月も終わろうとしている。
「去年今年」といえば、高浜虚子の有名な句が思い出される。詠まれたのは昭和25年12月、虚子76歳であった。
去年今年貫く棒の如きもの
力強い句である。
私はといえば、12月下旬から体調を崩して寝込んでしまい、年内には治るだろうと高をくくっていたが、「去年」から「今年」に持ち込んでしまった。
〈1月1日〉
正月は家族みんなで祝ったものの、ほとんど寝正月という情けない年明けである。
〈1月2日〉
〈1月3日〉
4日、久しぶりに庭に出る。ヒメリンゴの赤い実がまだたくさん枝についている。小鳥たちもよくやって来る。シジュウカラはピュルリ、チュルリ、ピリリリリとせわしなく鳴く。少し元気が出る。
〈小寒〉
年末から正月にかけていい天気が続いていたが、6日には雨が降った。やっと熱が下がってきて、昼間は37℃を切るようになる。この日は月曜日。かかりつけのクリニックが開業する。そう遠くはないが、車を運転して行く。久しぶりに降る弱い雨が車の窓を流れる。
診察の結果、幸いインフルでもコロナでもなかった。風邪薬を処方してもらう。しかし、こうしてちょっと外出するだけで疲れてしまう。
この日は二十四節気の「小寒」。体も心も、ちょっと寒い。
夜、何度も汗をかいて目覚め、着替える。なぜか夜に熱が上がる。早くこのトンネルを抜け出したい。
回復の兆し
しつこい風邪も、やっと峠を越したようだ。8日は子どもたち(孫たち)の始業式。解放感がある。
一つ、まだほっとできないことが残っている。年賀状だ。たくさんの年賀状をいただいたのに、昨年買った年賀状は、包んだままになっている。なんとかしなくっちゃ。そうそう、こんな可愛い年賀状が来てました。
同じ日、卒業生から見舞いのお花が届く。本当にありがたいですね。
9日は今年最初の病院の日。化学療法の日だが、今回はその前に造影CT検査があった。これまでこの腕に、いったい何本の注射針を刺されたことだろうか。
検査の結果はすぐにわかる。病巣は小さくなっているという。いまの治療が功を奏していると思いたい。そうだとしたらうれしい。これで副作用がなければもっといいのだが。
このあと、化学療法室での点滴が始まる。いつも4時間弱。シートに座り続けてじっとしているのはしんどいものだ。目の前の液晶テレビは、北陸の大雪のニュースを映している。
翌日も寒い一日だった。知り合いから「雪が舞ってます」というLINEが来た。外を見ると、青空にわずかな白い雪が風に舞っている。
10日といえば、「十日戎」の日だった。これまたテレビのニュースで気がついた。
ちょっと外出
11日、風もなく暖かい。やっと完成した年賀状を持って郵便局まで歩く。帰りに、すぐそばにある図書館に立ち寄ると、友達といっしょに本を見ている4年生の孫とばったり会った。
年末正月は本を読む気力もなかったが、やっとミステリーぐらいは読めそうな気がする。1冊選んでカウンターに持って行くが、貸し出しカードがないことに気づいた。おバカ。
家に帰って、本棚にある未読の本をさがすことにする。
伊坂幸太郎の『ペッパーズ・ゴースト』はまだ新しい。
主人公は中学校の国語教師。他人の明日が少しみえるという特殊な能力を持っている彼は、女子生徒の書いた不思議な小説原稿の世界に入り込み、翻弄される。
『ラオスにいったい何があるというのですか?』は、そのタイトルにひかれ、村上春樹の紀行文集というので、かなり以前に購入した読みかけの本だ。
長く東南アジアの国々を旅し、残るはラオスと思っていたので、この本は「ラオス本」だと期待した。ところが中を見てみると、10編の紀行文のうち、アジアはこの1編のみで、ほかはアメリカや北欧やギリシャ、ローマなどで、ちょっとガッカリ。
村上春樹は、ギリシャやローマに滞在しながら『ノルウェイの森』などを執筆したり、アメリカのボストンで数年暮らしていた経験がある。
彼の風景描写などは確かに上手いけれど、本の帯にある「旅先で何もかもがうまく行ったら、それは旅行じゃない」という言葉を見て、なんだかなあと思ってしまう。だって、彼の旅行には、編集者やカメラマンが同行しているんだもの。
体調のいいときは、ちょっと歩いてみようという気になる。いい傾向だ。家から5分ほどのすぐ近くに、畑を作っている人がいる。今は冬なので殺風景だが、ちょっと前まで、5、6本の柿の木に実がいっぱい生っていた。今は実がまったく見当たらず、スズメのお宿になっている。写真を撮ったけれど、離れすぎていて上手く撮れなかった。これではスズメとはわからないね。
スズメは集団でやって来るけれど、カラスは必ずしもそうではない。後方の竹藪の天辺に一羽のカラスがとまっている。「孤高のカラス」と言えば、言い過ぎだろうか。
帰り道に、自動精米機がある。この辺りにはまだ田圃があるから、玄米を持ち込んで精米する人が多い。こぼれたお米を目指してスズメがやって来る。
15日は「小正月」。正月もここまでか。この日に「どんど焼き」をする神社も多い。
『枕草子』に面白い風習が描かれている。この日の朝には小豆粥を食べる習慣があったが、その「粥の木」を隠し持って互いの腰やお尻を叩いたという。みんな「打たれまい」と常に注意しているが、それでもうまく打ち当てたときは、大笑いになった。
本文にはまだ続きがあるが、粥を煮たときに使った「粥の木」で腰を打つと、男の子に恵まれるという俗信あったそうだ。
この日は何となく体が重くて、夜も早くに横になった。3次元から2次元の世界に入る。
17日は、阪神淡路大震災が起こった日だ。あの日から早くも30年の歳月が過ぎ去った。神戸にある親戚の家は、大きな被害を受けた。あの日職場に行くと、天井が落ち建物に亀裂が走っていた。
その後も大きな地震が続いている。日本が火山国、地震国であることを忘れてはいけない。
マンションの中庭にある木が剪定されて、枝がまったくなくなってしまった。こうなると何の木だったのか、さっぱりわからない。しかし青空に向かって伸びる裸木を見ると、かえって力強さを感じてしまう。この力は、復興の力、そして回復の力。
18日は、今年最初の地元の公民館講座だった。1月はここを回復の目標にしてきた。前3回は「狛犬」がテーマだったが、今回は「神使になった動物たち」の話をした。「神使」とは、その神社の祭神と特に関係の深い動物で、文字どおり「神の使い」である。稲荷神社の「狐」とか、天神さんの「牛」とか。
会場の公民館までは車で行く。途中にこの辺りの産土神である伊射奈岐神社がある。しかし正月からこちら、まだお参りにも行けていない。
講座は無事修了。十二支のいろいろな神使は、受講した方々にとっては珍しかっただろうと思う。
ちょっと疲れたかも。途中で一度、声がかすれた。帰宅して昼ご飯を食べたあと、少し眠る。
もう下旬
年末に風邪を引いて寝込んでから、ひと月が経った。体力が落ち込むのはあっという間だが、回復は牛の歩みだ。
20日、アメリカで大統領就任式があった。アメリカをどこへ向かわせようというのか。新大統領の言う「アメリカの黄金期」とは。
支持する人もいるのであまり触れないでおくが、この日は「大寒」だった。
威勢はいいが、どこか心が大いに寒々とする就任式でしたね。
午後、思い切って伊射奈岐神社まで歩いてみた。普通に歩けば家から10分ほどの距離だが、ゆっくり歩きながら寄り道したりすると、その倍はかかる。
お寺の下の道を過ぎると狭い雑木林があるが、下草が刈られ、邪魔な木も伐採されて、とてもスッキリしていた。そこに井戸があるのを初めて知った。もちろん使われておらず、水を汲み上げることができるのかわからない。
道を挟んだ家には広い庭があって、表札には「IDA」とある。以前気功体操の教室で知り合った方のお宅だ。
ふと、「IDA」と「IDO」がつながった。ダ行5段活用ができるかな。
DAーDIーDUーDEーDO
「DI」と「DU」は日本語ではムリ!
そんな他愛ないことを考えたりしているうちに神社に到着。遅い初詣をすませて、往復1時間の外出だった。そうそう、途中でいい香りがするのでふと見ると、蝋梅が咲いていた。家に籠もっていると気づかない発見が外にある。
我が家はマンションだが、3階だけは庭がある。その庭付きの3階を選んだのは、いい選択だった。ヒメリンゴの木を植えられたし、小鳥たちもやって来る。ハナモモはあまり花を咲かせなくなったけど。
何度も書いているけれど、ヒメリンゴの赤い実を食べに来るのは、メジロ、シジュウカラ、そしてヒヨドリ。ほかの小鳥がやって来ても、よくわからない。
朝、庭先でそっと見ていると、メジロが 4,5羽 ヒメリンゴの木にやって来た。するとヒヨドリが、滑るように飛んできてメジロを追い散らした。メジロは「ピリリリリ、チュチュチュチュチュ」と鳴きながら隣の家の木に飛び移った。
ヒヨドリが去ると、メジロはまたヒメリンゴの木に戻ってくる。するとまたヒヨドリがどこからか滑空してきてメジロを追い払う。
この辺りがヒヨドリの縄張りとは思えないが、こうして小鳥を追い散らすのは、ヒヨドリの習性なんだろう。しかしあの大きさで、木の枝に触れもしないで滑るように飛ぶのはすごいかも。
23日、今年2回目の化学療法。今は平熱だが、前の晩、38℃を超える熱が出たので、問診でそれを言うと、すぐに「発熱外来」に行くように言われた。鼻腔の奥まで長い検査棒を入れて検体を採る。いったどこまで入るのか?
しばらく待った結果、陰性と告げられる。
このあと、消化器内科、化学療法室と巡回し、長い点滴が始まる。
25日、点滴の針を抜く。病院で点滴を始めたあと、48時間後に終了するので、胸のポートに刺した針は、自宅で抜かなければいけない。
1月25日といえば「初天神」。どこにも出かけないので、テレビのニュースを見て、ああ、そうだったと気づく。この日の京都の天気は「晴のち雨」。夕方の雨の様子が放映されていた。
26日、日曜日。熱なし。体調よし。
東京に住む従弟から見舞いの手紙が来ていたので、その返信をポストに投函する。そのついでに、秋の終わりに歩いた「紅葉のトンネル」に行ってみることにする。
秋の日を受けて黄金色に輝いていた落ち葉は、すっかり色褪せてしまった。ハトたちがしきりに落ち葉の間の何かをついばんでいる。何があるんだろう?
紅葉のトンネルは予想通りすっかり葉を落として、枝の隙間から青空を見せていた。道を通る人はほとんどいない。空気は冷たく凜としている。
その中に、なぜか一本の木だけ色褪せた紅葉が残っているものがあった。この木はなぜ枯れた葉と別れようとしないのだろうか。もうすぐ立春だというのに、春の準備が遅れるではないか。
28日、老人ホームから封書が届いた。入所の案内かと思ってイヤな気がした。開封すると、1枚の用紙が入っていた。
M様ですが、令和6年9月12日に・・・永眠されました。
M先生は刀剣の専門家で、大阪市立博物館の館長も務めた人だ。大学の時に先生の博物館学の授業を受け、実物を見ることの大切さを教わった。先生といっしょに、松本まで刀剣を見に行ったこともあった。
大学卒業後も、博物館にはよく出入りさせてもらった。奥様が亡くなり、晩年はホームに入られたが、年に一度ぐらいはご挨拶に訪れた。家族ぐるみでお世話になった特別な人だった。
まあ、あまりにも個人的なことなので、これくらいにしておきますが、この先生も俳句を作っておられた。ちゃんと結社に所属して、俳誌に発表しておられた。私の「適当な」俳句とは違いますね。
もう一つ。この日、森永卓郎さんが亡くなった。私と同じ「原発不明がん」だったという。
せつない一日でした。
月末の3日間は、ほとんど家で過ごした。「1月の俳句」をnoteにまとめるのに時間がかかった(あまりにも長くてすみません)せいもあるし、午後3時ごろになるとなんとなくしんどくなってくる(病気の話も多くてすみません)ので、PCを切ることが多かった。
31日の朝。ほほえましい話。
ヒメリンゴの木に、2羽のメジロがやって来た。そっと見ていると、下枝にとまった目白は、枝がゆらゆら揺れるので目の前の枝に飛び移る。するとその枝もゆらゆら揺れるので、さらに違う枝に飛び移る。それを3、4回繰り返したあと、もう一羽がリンゴを食べている上の方の枝に飛び移った。上の枝はそれほど揺れない。下の枝が揺れたのは細いからかもしれないが、メジロはサーカスのブランコ乗りのように、揺れる枝から次の枝へジャンプしていた。
ほんのわずかな時間のことで、写真も撮れなかったが、ほほえましい光景だった。
2月が元気で明るい季節になりますように。