伊勢物語講座 1/2 無事終わる
文芸講座「伊勢物語絵を読む」
『伊勢物語』は、『古今和歌集』や『源氏物語』などと並んで、古くから人々に愛されてきました。そして、その成立の初期の頃から物語の絵画化が行われていたと思われます。現在まで伝わる「伊勢物語絵」の遺品の多くは江戸時代のものですが、実際はそれ以前にも多くの「伊勢物語絵」が存在していました。
この講座は、『伊勢物語』の本文を読みながら、「伊勢物語絵」を同時に楽しむことが目的です。2年前からスタートして、今回が3回目。
『伊勢物語』は全部で125の段から成り、在原業平の一代記のような体裁になっています。その中にはたくさんの男女の恋が描かれていますが、女の名前が明らかにされるのはわずか二人だけです。すなわち二条の后高子と伊勢の斎宮恬子です。この二人は、天皇の「后」と伊勢神宮に奉仕する「斎宮」ですから、どちらも男が恋をしてはならない女性でした。これらの女性に恋をすることは、男の身の破滅につながります。『伊勢物語』に描かれる「二条の后物語」と「伊勢の斎宮物語」は、まさに「禁断の恋」のお話なのです。
二条の后物語
「二条の后物語」はこんなお話でした。
「二条の后物語」は1回目の講座の中心でした。今日はもう一つの「禁断の恋」のお話、「伊勢の斎宮物語」を読みました。
伊勢の斎宮物語
「斎宮」とは、天皇に代わって伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女・女王のことです。天皇の御代がかわると任期が終わります。
『伊勢物語』では、第69段に「伊勢の斎宮物語」があります。
《1日目》
男が伊勢国に「狩の使」に出かけます。「狩の使」とは、朝廷の宴会用の鳥獣の狩猟に遣わされた使者のことで、国々の情勢を視察する任務を帯びていたと言われます。
男が伊勢に出向くとき、伊勢の斎宮の母親で文徳天皇の更衣であった紀静子は、斎宮に手紙を送ります。
「いつもの勅使よりも、この人を特別にお世話しなさい。」
斎宮は母親の言葉どおり、心を込めて男のお世話をしました。
《2日目》
心のこもった女のもてなしに、男は心を動かされたのでしょうか。2日目の夜、男は「ぜひともお逢いしたい」と女に伝えます。女も同じ気持ちでしたが、宵のうちは人目が多く、逢うことができません。
それでも女は、人々が寝静まった子の刻(午後11時過ぎ頃)に、大胆にも男の部屋にやって来たのでした。
逢いたいとは言ったものの、相手は神に仕える斎宮です。男は女の寝所に忍びこむのが無謀だとわきまえています。悶々として眠れなかった男は、朧月の光の中に、女の童を先に立てて部屋の前に立っている女の姿を見つけます。
男はもう有頂天になって、女を寝所に連れて入り、二人は丑三つ時(午前2時過ぎ)まで、約3時間を共に過ごすのです。さてこの間に何があったのか。作者は、「まだ何事も語らはぬに、帰りにけり」と書いています。神に仕える斎宮は、身の清浄が不可欠ですから、男と契りを結んだなどとは書けなかったのでしょうか。それとも本当に何事もなかったのでしょうか(そんなことはないでしょう)。
女が帰ったあと男は一人取り残されて、悲しみのあまり、朝まで眠れませんでした。
《3日目》
やがて夜が明けました。男は女のことが気になってしかたがありません。通常ならば、男の方から女のもとを訪れ、翌朝には男の方から後朝の文を贈るのですが、ここでは勝手が違います。相手が斎宮だけに、男は文を贈りづらかったのでしょう。
何か言ってくるかもしれないと思って待っていると、すっかり夜が明けてしばらく後、女から歌だけが書かれた手紙が届きました。
〈あなたが来られたのでしょうか、それとも私のほうから伺ったのでしょうか、よくわかりません。あれは夢だったのでしょうか、それとも現実の出来事だったのでしょうか。眠っていたのでしょうか、それとも目覚めていたのでしょうか。〉
男はたいそう泣いて、返事の歌を詠みました。
〈涙に暮れて、心も闇にまようような状態で、私には何の分別もつきません。あれが夢だったのか、現実のことだったのかは、今晩おいでになって確かめてください。〉
そしてこの歌を贈ったあと、男は狩にでかけるのです。男は朝廷から派遣された狩の使いです。心の中がいかに悶々としていても、出かけないわけにはいきませんでした。
男は野に出て狩りをするが、上の空。ただ思うのは女のことだけでした。
『せめて今夜だけでも人々を寝静まらせて、早く逢おう。』
男はそう心に決めて宿舎に戻ります。ところが予期せぬ接待が待っていました。伊勢国の国司で、斎宮寮の長官を兼ねていた人物が、狩の使いが来ていると聞いて、夜通しの酒宴を開いたのです。男は気が気でありませんが、どうしようもありません。夜が明ければ、男は次の目的地である尾張の国に旅立たねばならないのです。ひそかに血の涙を流しますが、もはや女と逢うことはできなくなってしまいました。
《4日目》
無情にもしだいに夜が明けていきます。そこに女のもとからお別れの盃が届けられました。盃をのせた台皿に歌が書かれています。男が手に取って見ると、
〈私たちの仲は、徒歩で河渡りをする人が渡っても裾が濡れない流れのような、浅いご縁ですので。〉
とだけ書いてあります。上の句だけで下の句はありません。それは中途半端に終わった二人の逢瀬のようでした。
男は、その盃の皿に、松明の燃え残りの炭で、歌の下の句を書き足します。
〈もう一度逢坂の関を越えて、きっとあなたとお逢いしましょう。〉
今の男にできることは、そのように返事をするのが精一杯でした。「逢坂の関」を越えるとは、男女が逢うことを暗示していますが、同時に、神域の身分の女性である斎宮と逢うという禁忌を犯す決意を表しています。
こうして男は、後ろ髪を引かれながら、尾張の国へと国境を越えていったのでした。
その後二人がどうなったのか、『伊勢物語』には何の記述もありません。これが史実かどうかを証明する手立てもありません。
ところで、この段の最後には、次の一文が付け足されています。
「水尾の御時」というのは、清和天皇の御代を指します。清和天皇の時代の斎宮は、文徳天皇の娘で惟喬の親王の妹であった恬子内親王でした。
恬子内親王は、次の陽成天皇が即位するまで、18年間も伊勢の斎宮として奉仕します。
歴史に落とした影
先ほど、「これが史実かどうかを証明する手立てもありません」と書きましたが、『伊勢物語』に書かれた斎宮と男の逢瀬は、斎宮の懐妊という結果を生み出したといわれています。この前代未聞の不祥事が表に出て困るのは、斎宮寮の役人です。当時、伊勢権守で斎宮寮の頭であった高階峯緒は、生まれた子どもを、我が子茂範の養子としました。子どもは成長して高階師尚となります。こうして高階氏は、斎宮の密通を隠蔽したということになっています。もちろんこれは、当時の伝承の域を越えませんが・・・。
しかしこの高階氏の行為は、一条天皇の御代に、思いがけない影響をもたらします。一条天皇には、定子と彰子という二人の后がいました。どちらにも皇子がいて、天皇はだれを皇太子にするかを決めかね、藤原行成に意見を聞きました。行成は、「高氏ノ先ハ斎宮ノ事ニ依リ其ノ後胤為ル者ハ皆以テ和セザル也」と進言します。定子皇后の母は高階貴子で、高階氏出身ということを理由に、定子方の皇子ではなく、彰子方の皇子を立太子すべきだと奏上したのです。このことは藤原行成の日記『権記』に記されています。
このことを在原業平が知ったら、どう思うでしょうね。事実と虚構の境界線が曖昧であることが、さまざまな憶測や伝承を生み出していくのですね。