大阪市の神社と狛犬 ⑬港区 ⑥港住吉神社(その2)~発見! 安政の浪速狛犬~
大阪市港区の地図と神社
大阪市には、現在24の行政区があります。港区は大阪市の西部に位置する東西に細長い形をした区で、安治川と尻無川にはさまれ、大阪港を擁する海の玄関口に位置しています。
この地域は、かつては淀川の河口に発達した低湿な三角州でしたが、江戸時代に入って河村瑞賢が安治川を開削し、市岡新田をはじめとする大規模な新田開発が進められました。現在も、新田開発者の名前が地名として残っています。
近年は、ウォーターフロント開発により天保山に「海遊館」をはじめとする集客施設が多数建設され、現在も開発が進んでいます。
港区には、神社が6社あり、新田開発の成功を祈願して、神様を勧請して創建された神社が多いことが特徴です。また6社のうち半数の3社が住吉神社です。
今回の港住吉神社は住吉大社の境外社で、港区の神社の中ではもっとも海側に位置します。鎮座地は、大阪メトロ中央線大阪港駅から南東へ500mほどのところです。港住吉神社で、港区は最後になります。
今回は、「大阪市の神社と狛犬 ⑬港区 ⑥港住吉神社(その1)~鳥居前の住吉型人面狛犬~」の続きです。
港住吉神社
■所在地 552-0021 大阪市港区築港1-5-20
■主祭神 底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后
■由緒 天保13年(1842)、航海の神である住吉大神を大阪港入港の目印となっていた天保山山頂に祀ったのが当社の始まりである。天保山は安治川の浚渫工事で出た土砂を河口に積み上げた約20mの人工の山で、当初は「目印山」と呼ばれた。その後幕末に、天保山山頂に砲台を設置することになったために移転した。明治39年(1906)には住吉大社の境外末社となり、その翌年、西区靭中通りにあった永代濱住吉神社を合祀する。さらに大正6年(1917)に現在地に遷った。
狛犬3
■奉献年 安政五年戊午五月(1858)
■石工 不明
■材質 花崗岩
■設置 境内南側 展示棟裏手
港住吉神社は天保13年(1842)の創建だが、天保といえば、浪速狛犬の最盛である。創建時に狛犬の奉献もあったかもしれないが、当時の狛犬はない。
ところが、境内の楠玉稲荷神社に向かって右手にある倉庫の横で、一体の浪速狛犬を見つけた。倉庫を挟んだ展示棟の裏手の草むらにも、もう一体があった。倉庫を挟んで離ればなれに置かれている。
第二台座(基壇)の正面には「奉献」の文字があり、その反対側に紀年銘がある。「安政五年戊午五月」と記されている。
安政五年は1858年で、港住吉神社の創建から16年後にあたる。天保山に台場が築かれて、最初に移転したのが元治元年(1864)だから、この狛犬が奉納されたのは、港住吉神社がまだ天保山の頂上に鎮座していた時期である。創建から遅れて奉納されたのだろうか。台座には奉献者と思われる人名も記されているが、半ば土に埋もれ、草に隠れて、詳しく読み取ることができない。
この安政の狛犬に関して、もう一つの可能性が考えられる。それは、明治40年(1907)に西区靭中通りにあった永代濱住吉神社を合祀したことである。本殿の裏手には、永代濱住吉神社にあった石碑が置かれているが、これらの石碑をこちらに移したときに、狛犬もいっしょに持ってきたのかもしれない。
あれこれ想像するのは楽しいが、真相は謎のままである。
さて、この狛犬は花崗岩製で、保存状態は悪くない。安政といえば幕末だが、伝統的な浪速狛犬の雰囲気を強く残している。こんな草むらに放置しておくのは惜しい狛犬だ。拝殿前には狛犬がいないので、これを安置して、本殿の神様の守護獣としてはどうかと、勝手に思ってしまう。
狛犬4
■奉献年 昭和十八年十二月吉日(1943) 神職 荒井彌太郎
■石工 石匠 春本鹿太郎
■材質 花崗岩
■設置 本殿裏手
安政年間の浪速狛犬と出会ったあと、本殿の裏側に回ってみた。少しのスペースの向こう側には塀が巡らされていて、その向こうに阪神高速道路湾岸線が見える。塀際には石鳥居と灯籠があり、そばには狛犬が置かれていた。
塀のすぐ外側は、隣接する築港中学校のテニスコートだった。かつてはここに、港住吉神社の裏参道があったと思われる。築港中学校の開校は昭和53年(1978)で、その時に社地の一部を削ったのだろうか。
現在の港住吉神社の社地はかつて築港遊園地があった場所で、大阪市が所有する土地であった。この地への移転に際し、大阪市が無償で提供したという。その後大阪市は、本社の住吉大社に対して、市有地の明け渡しを求めて訴訟を起こした。そして平成28年(2016)に和解が成立し、2億6500万円で市有地を売却することが決定した。
本殿裏手の鳥居に続く裏参道がなくなったのは、大阪市立の中学校建設のためだったのだろう。
永代濱住吉神社の石碑群
大阪市西区に靱公園という総合公園がある。この付近一帯はかつては永代浜と呼ばれ、昆布、塩干魚、鰹節などの海産物の市場として賑わっていた。この地には住吉神を祀る永代濱住吉神社があったが、明治40年(1907)にこの港住吉神社に合祀された。
永代濱住吉神社には塩魚や乾物を扱う商人が奉納したたくさんの石碑があったが、合祀の際にそれらも港住吉神社に移された。社殿の左手や裏側に置かれた石碑群は、かつての永代濱の賑わいの名残といえるだろう。
戦争遺物
砲弾
港住吉神社は、昭和20年(1945)の大阪大空襲で社殿など大半が焼失したという。戦争はあらゆるものを無に帰してしまう。
天保山の山頂に創建された港住吉神社が最初に移転を余儀なくされたのも、幕府が外国に対する警護を固めるために、元治元年(1864)に天保山に西洋式の城塞をつくり砲台を建設することになったからだった。
港住吉神社の境内の目立たない場所に、日露戦争の軍艦の砲弾2発が奉納されて残っていた。
主がいない台座
港住吉神社への参道がある築港南公園に、巨大な台座がある。ここにはかつて、高さ約3mにもなる青銅製軍馬像があったという。もとは日露戦争に出征した軍馬の慰霊のために、明治42年(1909)に中之島公園に建てられものだが、馬たちが船に乗降したこの地に移設された。しかし昭和16年(1941)に出された金属回収令によって軍馬像は供出されてしまった。今は空しく台座だけが残っている。
港住吉神社は、なかなか見所の多い神社だった。大阪(大坂)の古い呼び名であった「なにわ」は、「浪速」「浪花」「難波」などいろんな表記がされるが、すべて海と関わりがある。その海の神をお祀りする住吉神社が、昔から人々の信仰をあつめ、親しまれたのは当然のことだろう。
港住吉神社には、晩秋と早春の二度参拝したが、普段は訪れる人も少ないようだ。祭礼が行われる季節は賑やかなのだろう。望むべくは、もう少し境内が整備されていれば、と思う。