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源融と亡霊の話➋

始まりは「此附近 源融河原院址」の石標

この話は、前回の、京都の五条大橋の手前で「源融河原院址」の石標を見つけたところから始まります。

源融は『源氏物語』の光源氏のモデルになったと言われる人物で、左大臣まで上り詰めましたが、年下で右大臣であった藤原基経が陽成天皇の摂政に任命されたのを機に引退します。
次の光孝天皇が即位すると、融は再び政務に復帰しますが、その次の宇多天皇の寛平7年(895)に74歳で没しました。
この源融が造営した広大な邸宅が河原院です。

河原院について気になり始めたのは、かなり以前のことです。『源氏物語』の「夕顔」の巻に「某の院」として登場する邸のモデルが、この河原院だと言われています。

某の院の物の怪

光源氏17歳の夏のことです。
源氏はすでに左大臣の姫君であった葵上を正妻として迎えていましたが、六条に住む一人の女性のところにも通っていました。
その女性は先の皇太子妃でありましたが、夫に先立たれ、若くして未亡人になってしまいました。これが六条御息所です。

ある日のことです。六条御息所のもとにお忍びで出かける途中、五条に住む乳母が病気で尼になっていたのを見舞いに立ち寄りました。その時、みすぼらしい家の垣根に白い夕顔の花が微笑むように咲いているのに心がひかれます。この家に隠れるように暮らしていたのが「夕顔」と呼ばれる女性でした。やがて源氏は、自分の身分を隠して夕顔のもとに通うようになります。

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Wikipedia「源氏夕顔巻」(月岡芳年『月百姿』)

その年の8月15日、中秋の名月の夜、源氏は夕顔の宿で一夜を過ごしましたが、別れがたく思って、今では廃院となった邸に夕顔を連れて行きます。この廃院こそ、河原院をモデルにした邸です。
庭には鬱蒼と木立が生い茂って昼なお暗く、フクロウの声が聞こえるなど、夕顔は生きた心地がしません。
やがて日はとっぷりと暮れ、人気のない邸は闇に包まれます。夜中、二人が臥す枕元に一人の美しい女が現れ、源氏に恨み言を言うのです。目覚めた源氏は枕元に置いていた太刀を手にとりますが、その女はふっと闇の中に消えてしまいます。
隣に臥している夕顔のことが気になって、源氏は体に触れますが、夕顔はすでに正気の状態ではありません。そして、やがて冷たくなってしまうのでした。

源氏の夢に現れて恨み言を告げた女性がだれなのかは、どこにも書かれてはいません。しかし、「おのがいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、かく、ことなることなき人を率ておはして、時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」という言葉は、この女性が六条御息所の生霊であることを暗示しています。

六条御息所の生霊は、「葵」の巻で葵上が出産する場面でも登場します。
葵の上は物の怪に苦しみながら、難産のすえ男子を出産しますが、数日後の秋の司召の夜に容体が急変して亡くなってしまうのでした。

話を河原院に戻しますが、なにがしの院に物の怪(霊)が現れるという設定は、河原院に物の怪が出るという話が、紫式部の時代にはすでにあったからでしょう。

河原院ニ融公ノ霊住ム事

さて、やっと今回のテーマである「源融と亡霊の話」にたどり着きました。
この話は、平安時代末期に成立した『今昔物語集』や『古本説話集』、鎌倉時代初期に成立した『宇治拾遺物語』などに収録されています。

●『今昔物語集』巻二十七第二話「川原院融左大臣霊宇陀院見給語」
●『古本説話集』二七「河原院事」
●『宇治拾遺物語』巻十二の十五「河原院融公霊住事」

細部の違いはありますが、内容的にはほぼ同じで、当時宇多院の所有になっていた河原院に、源融の亡霊が現れます。
次に、『宇治拾遺物語』の本文を紹介しましょう。

第151話「河原院ニ融公ノ霊住ム事」

 今は昔、河原院は融の左大臣の家なり。陸奥みちのくの塩釜のかたをつくりて、うしおを汲み寄せて、塩を焼かせなど、さまざまのをかしき事を尽くして住み給ひける。大臣おとど失せて後、宇多院には奉りたるなり。延喜の御門みかど、たびたび行幸ありけり。
 まだ院の住ませ給ひける折に、夜中ばかりに、西のたい塗籠ぬりごめを開けて、そよめきて人の参るやうにおぼされければ、見させ給へば、日の装束うるはしくしたる人の、太刀はき、笏取りて、二間ばかりのきて、かしこまりて居たり。「あれはそ」と問はせ給へば、「ここの主に候ふ翁なり」と申す。「融の大臣か」と問はせ給へば、「しかに候ふ」と申す。「さは何ぞ」と仰せらるれば、「家なれば住み候ふに、おはしますがかたじけなく、所せく候ふなり。いかが仕るべからん」と申せば、「それはいといと異様ことやうのことなり。故大臣の子孫の、我に取らせたれば、住むにこそあれ。わが押し取りてゐたらばこそあらめ、礼も知らず、いかにかくは恨むるぞ」と高やかに仰せられければ、かい消つやうに失せぬ。
 その折の人々「なほ、御門はかたことにおはしますものなり。ただの人は、その大臣に会ひて、さやうにすくよかには言ひてんや」とぞ言ひける。』 
                                

河原院といえば、源融がその庭園に塩釜を造ったことで有名だったようです。融左大臣の没後、宇多院に献上されますが、ある日の夜中、西の対屋から衣擦れの音をさせて誰かがやって来ます。立派に正装して太刀を帯び笏を持ったその人物は、宇多院から少し離れたところにかしこまって座します。

宇多院「お前は誰か」
融大臣「この邸の主の翁でございます」
宇多院「融の大臣か」
融大臣「さようでございます」
宇多院「そのまねは何事か」
融大臣「ここは我が家なので住んでおりますが、院がおいでになるのが畏れ
    多く、窮屈でなりませぬ。どうしたらよいのでしょう」
宇多院「それはたいそうおかしな話だ。この邸は亡くなった大臣の子孫が私
    に献上したからこそ住んでいるのだ。私が取り上げて無理に住んで
    いるのならともかく、礼儀もわきまえずに、どうしてそのように恨
    むのか」

宇多院に一喝された源融の亡霊は、かき消すように消えてしまいました。
本文は、物の怪に対して恐れずきっぱりと言い放った宇多院を褒める内容で終わっています。

融大臣の霊、寛平法王の御腰を抱く事

平安時代後期の学者に、大江匡房おおえのまさふさという人がいます。学才だけでなく和歌にも優れ、当時の勅撰和歌集にも多くの歌が収録されています。「小倉百人一首」にも権中納言匡房として、「高砂の尾上の桜咲きにけり 外山とやまのかすみ立たずもあらなむ」という歌が入っています。
大江匡房の談話を藤原実兼が記録したものに『江談抄ごうだんしょう』という書物があります。内容は、説話・漢詩文・公事など多岐にわたっています。成立は12世紀の初頭で、説話集としては、『今昔物語集』に先行する作品です。
この『江談抄』にも源融の霊が河原院に現れる話があります。次のその内容を紹介しましょう。

『江談抄』巻3の32話「融大臣の霊、寛平法王の御腰を抱く事」

宇多法皇が、京極御息所とともに河原院においでになり、山川の景色を御覧になった。その夜は、お車の畳を取り下ろして御座所とし、御息所とお過ごしになった。
夜中、御殿の塗籠に人の気配がし、誰かが戸を開けて出て来た。
法皇がお尋ねになると、その者は「融にて候。御息所を賜らんと欲ふ」とこたえる。
法皇が「汝、在生の時、臣下たり。我は主上たり。なんぞみだりにこの言を出だすや。退り帰るべし」と言ったところ、その霊物は、おそれながら法皇の御腰に抱きついた。
御息所は半ば死して、顔色を失っていた。

『今昔物語集』や『古本説話集』『宇治拾遺物語』には登場しなかった京極御息所が、この『江談抄』には出てきます。さらに注目すべき点は、源融の霊が「御息所がほしい」と言ったことです。
融は宇多法皇の腰に抱きつきますが、この部分は『河海抄かかいしょう』(室町時代初期に成立した『源氏物語』の注釈書)では、御息所の腰に抱きついたことになっています。
「御息所がほしい」と言って法皇の腰に抱きつくのは変ですが、御息所本人に抱きつくのなら納得がいきますね。
この後、半死の御息所は宮中に運ばれ、僧が加持祈祷することによって、やっと蘇生したということです。

地獄に堕ちた源融

ここまで書いてきて気になることは、源融の亡霊がなぜ河原院に現れるのかということです。よほど河原院に執着があったのでしょうか。「御息所がほしい」というような生々しい言葉を聞くと、現世に対する執着というべきかもしれません。

平安時代中期の11世紀中頃に成立した漢詩文集に『|本朝文粋《ほんちょうもんずい》』があります。
この中に、紀在昌の「宇多院為河原左相府没後修風誦文」という文が載せられています。「風誦文ふじゅもん」とは、死者の追善供養のために捧げる文章のことです。そこには次のようなことが書かれています。

あるとき、河原院に閑居していた宇多院の女官に源融の霊が取り憑いて、このように申し上げた。
「私は、生きている間に殺生を行なってきた報いで地獄へ落ちました。一日の間に何度もひどい拷問にあって苦しんでいますが、時々この河原院にやって来て休息をしているのです。しかし、地獄の役人が私を捜しに来るので、ここに長く留まることはできません。もし私の子孫が皆滅亡してしまったなら、私の救済を誰に頼ればよいのでしょうか」

宇多院が、どんな善行を積めばおまえを救うことができるのかと尋ねると、源融の霊は次のように答えた。
「私の罪は非常に深く、救うことは難しいのですが、七箇所の寺でそれぞれ諷誦を行い、その恵みの声聞くことができたなら、迷いの闇から抜け出すこともできましょう」

こうして宇多院は、融を救済するため、融の亡霊の求めに応じて七箇所の寺院で供養を行ったのでした。

この文によると、河原院は源融の死後も、彼の魂をやすめる場であったことになります。宇多院は、地獄に落ちて苦しむ源融を救済するために、七箇所の寺で、追善の法要を行います。歴史書によると、それは延長四年(926)のことでした。

平安時代後期に編纂された私撰の歴史書『|扶桑略記《ふそうりゃくき》』の巻廿四「醍醐天皇・下」の延長四年七月四日の条には次のように記されています。
これは読むのが大変ですから、我慢強い方はチャレンジしてみてください。

延長四年七月四日,宇多法皇為故左大臣源融朝臣,於七筒寺被修誦經。其諷誦文,右奉仰云、河原院者,故左大臣源朝臣之舊宅也。林泉卜隣,喧囂隔境,擇地而搆,雖在東都之東。入門以居,如遁北山之北。是以,年來尋風烟之幽趣,為禪定之閑棲,時代已不同於昔年,舉動何有煩於舊主。而去月廿五日,大臣亡靈,忽託宮人申云、我在世之間,不修諸善。依其業報,堕於惡趣。一日之中,三度受苦,劔林置身,鐵杵砕骨。楚毒至痛,不可具言。唯其笞掠之餘,拷案之隙,因昔日之愛執,時時來息此院。惣為侍臣,不舉惡眼,况於寶体,豈有邪心乎。然而重罪之身,暴戻在性,雖無心於害物,猶有凶於向人。冥吏捜求,不得久駐。我子孫皆亡,汲引誰恃。適所遺者,非可相救。只悲歎於湯鑊之中,憂惱於伽鏁之下耳。敕答云、吟為卿修何善,令脱其苦乎。報奏云、罪根至深,妙功難拔。縱修無數之善,不知可脱之期。但於七箇寺,各修諷誦,遙聽拔苦之慈音,暫覺無明之毒睡。自餘雖修萬善,非我之所得也。於是觀其如此,悲感自然。朕昔居握符之尊,卿亦為知羮之佐。自分段無間,生死遂隔。難忌藥石之前言,未改魚水之舊契。常思,拔濟得道,早攀覺樹之華。豈慮,出離失媒,永溺苦海之浪。合體之義,既重於曩時。滅罪之謀,須迴於今日。仍卜七箇之精舍,叩九乳之梵鐘。今之所企,是其一也。伏乞,一音任風嵐,忽解鵝鴨之宿訴。三明逐日,遂為瓔珞之後身者。宮臣奉仰,所修如件。

「此附近 源融河原院址」の石標を見つけたことから、源融と河原院について調べはじめましたが、これは奥が深そうです。ますます迷路に迷い込みそうなところで、いったん立ち止まることにします。
これを一つの研究テーマにしたら、きっと面白いでしょうね。

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