大阪市の神社と狛犬 ➊東淀川区④大宮~石工喜兵衛渾身の狛犬~
大阪市東淀川区の地図と神社
大阪市には、現在24の行政区があります。その中で東淀川区は最北端に位置し、淀川の北側にあたります。
東淀川区には、神社本庁に加盟する7社があります。(地図参照)
大宮
■鎮座地 〒533-0012 大阪市東淀川区大道南3-2-2
■主祭神 安閑天皇
■由緒 通称「大宮神社」。『日本書紀』によると、安閑天皇がしばしばこの地に行幸して、牛を放牧して土地の発展を計らせたという。後にその遺徳を慕って天皇を祭祀したのが始まりだといわれている。またこの地は聖徳太子とも縁が深い。太子は初めこの地に四天王寺を建立しようとしたが、洪水が多いために断念したという。その名残か、大阪市に編入される大正14年までは、境内のあった土地は西成郡豊里村天王寺庄と称されていた。
狛犬1
■奉献年 干時享龢三亥季夏月建之(1803) 榊原伊兵衛
*「龢」は「和」の異体字
■石工 喜兵衛
■材質 砂岩
■設置 拝殿前
拝殿前の狛犬。阿吽ともに横に広がる耳を持ち、まん丸目玉に瞳がある。阿形は大きな口を開けて笑っているようだ。12本きれいにそろった上の歯と大きな舌が見える。吽形は閉じた口から上の歯並びと丸まった牙がのぞいている。吽形には小さな角があり、一方阿形の股間には陽物がある。顎下の巻き毛や流れ毛は、変化をつけながら整っていて美しい。尾は阿吽とも同じデザインで、中心線で左右に分かれ、先端を巻く。
台座には、「干時享龢三亥季夏月建之」「榊原伊兵衛」と刻されている。ま「龢」は「和」の異体字で、享和三年(1803)亥年の建立である。
「榊原伊兵衛」は奉献者の名前だろうか。別の面に「石工 喜兵衛」の文字がある。
享和年間は、それに続く文化・文政・天保の浪速狛犬最盛期の入口に当たる時代で、この狛犬からも、新しい時代の雰囲気が十分に伝わってくる。
狛犬2
■奉献年 天明四(年)九月吉(日)(1784)
■石工 不明
■材質 砂岩
■設置 拝殿と本殿との間にある幣殿外側の垣内(手前)
拝殿と本殿とをつなぐ幣殿の外側に、社殿の方を向いて2対の石造狛犬が置かれている。手前の狛犬の台座には、「天明四(年)九月吉(日)」という紀年銘がある。
垣内に置かれている上に、社殿の方を向いているので、正面の顔の表情等は残念ながら見ることができないが、後ろ姿から、阿形と吽形のたてがみの違いがよくわかる。阿形のたてがみが「巻き毛・流れ毛」であるのに対して、吽形のたてがみは「流れ毛」だけである。これは、『大阪狛犬の謎』(小寺慶昭著)で著者が名付けた「三輪型」というタイプにあたる。
「三輪型」の名称は、高槻市富田町の三輪神社の天明5年(1785)の石造獅子・狛犬が、そのたてがみのデザインを初めて別個のものにしたことに由来するが、大阪市中央区の御霊神社の青銅狛犬や、藤井寺市の道明寺天満宮の青銅狛犬の左右のたてがみはこのデザインだった。しかし、石造狛犬で左右をまったく異なるたてがみにしたのは、三輪神社が最初だった。
ところが、この大宮の「三輪型」狛犬の台座には、「天明四」と彫られている。これは三輪神社よりも1年早い、1784年になる。小寺先生がこの狛犬に気づいておられたならば、このタイプの浪速狛犬は、「三輪型」ではなく「大宮型」と名づけられたかもしれない。
脊梁がぼこぼこと隆起し、お尻がどっしりとしている。木が生えるように立ち上がる尾は、巻き毛の上部に三本の毛房が優美に伸びる。
狛犬3
■奉献年 明治十一年十二月(1878)
■石工 不明
■材質 砂岩
■設置 拝殿と本殿との間にある幣殿外側の垣内(奥)
明治初期の美しい誇張型狛犬。
こちらも向こうを向いているので顔の表情をつぶさにみることはできないが、幕末の弘化年間頃からに流行した誇張型の狛犬だと思われる。この型の浪速狛犬は、明治になってもしばらく引き継がれた。
しかし誇張型とは言っても、横顔を見る限りそれほど極端ではなく、バランスがとれた表情だと見受けられる。
わずかに傷んでいる箇所があるが、ほとんど完全な形で保存されている。ボリュームのあるたてがみの巻き毛や流れ毛、蹲踞した後肢の大きな走り毛も美しい。
ところで、天明4年の狛犬とこの明治11年の狛犬が、なぜこのような狭い空間に置かれているのか、気になるところだ。神社の方に伺っても、よくわからないとのことだった。考えられるのは、明治33年に淀川改修工事が行われた時に、もとの社殿は新淀川の河川敷になってしまったために、大宮神社は遷座を余儀なくされ、その際にもとの境内に安置されていたこれらの狛犬が、現在の狭い空間に収められたのではないかということだ。
または、明治43年と大正8年に近隣の神社が合祀されているので、その時にこれらの狛犬も移設されたとも考えられる。