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京都国立近代美術館 開館60周年記念「京都画壇の青春ー栖鳳、松園につづく新世代たち」~展覧会#47~
京都画壇
「京都画壇」という言葉をよく聞く。文字どおり京都で活躍した画家たちの総称である。明治以降の近代の画家たちを指す言葉だと思っていたが、その原点は江戸時代に活躍した狩野派・土佐派などの幕府や大名に仕えた御用絵師や、さらに町中で絵を描いていた円山派・四条派などといった町絵師たちにまでさかのぼる。
明治時代初期の京都は、江戸時代から続くこれらの流派が画壇の基盤になっていた。この時期を代表する画家は、円山派の森寛斎、望月派の望月玉泉、四条派の塩川文麟や幸野楳嶺、そして鈴木派の鈴木百年、久保田米僊などである。アーネスト・フェノロサは、いち早く西洋の近代的な画風をとりいれた東京画壇に比べて、これら京都の画家は流派にこだわり、様式に固執していると指摘したという。
「日本画」という言葉は、明治の初めまではなかった。西洋から「油絵」が入って来て、それに対して伝統的な画材や画法を踏襲する絵を「日本画」と呼ぶようになった。明治20~30年頃だと言われている。「絵師」という呼び方もいつの間にか「画家」にかわった。
その後、京都を活動の場とする「京都画壇」の画家たちは、遅ればせながら新時代にふさわしい日本画の発展を目指し始めた。彼らが対峙し挑んだのは、東京であり、西欧であり、地元京都の伝統であった。
揺籃期ともいえるこの時期の中心となったのは、上村松園、菊池契月、木島桜谷、そして竹内栖鳳らであった。さらにこれらの先輩画家たちの教えを受けて、近代の「日本画」を模索する新世代の画家たちが輩出する。
「京都画壇の青春」である。
京都画壇の青春ー栖鳳、松園につづく新世代たち
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今回の展覧会に出展されている作品数は、明治32年(1899)の山本春挙「夏の海邊之圖」・上村松園「人生の花」から、昭和12年(1937)の竹内栖鳳「若き家鴨」まで、前後期合わせて101点。
土田麦僊、小野竹喬、野長瀬晩花、岡本神草など新世代の画家たちが、竹内栖鳳、上村松園などの先輩画家たちとともに、まだ誰も見たことのない日本画を創造しようと試行錯誤する様子が、これらの作品を通じて見る者に伝わるような構成になっている。
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展覧会の「柱」は土田麦僊(1887~1936)の作品で、全部で12点あった。麦僊は竹内栖鳳の弟子で、京都市立絵画専門学校で学んでいる。
①土田麦僊「罰」 明治41年(1908)
文展初出品のデビュー作。叱られて立たされている子供たちの三者三様の姿が可愛くて目が離せなかった。
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②土田麦僊「髪」 明治末
③土田麦僊「島の女」 明治45年(大正元年 1912)
④土田麦僊「海女」 大正2年(1913)
6曲1双の屏風仕立ての大作。人物の表情や表現に大胆なデフォルメがなされている。この作品の文展出品について、師の竹内栖鳳は「かなり危険だ」と忠告したという。
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⑤土田麦僊「梅ヶ畑村」 大正4年(1915)
⑥土田麦僊「巴里の女」 大正12年(1923)
⑦土田麦僊「舞子林泉」 大正13年(1924)
麦僊は、西欧巡遊から帰国した後、西洋絵画に憧れるのをやめて日本の伝統を見直そうとした。舞子はその象徴である。伝統的な古典性の中に西洋的なデザイン性も感じ取れる。
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⑧土田麦僊「鮭」 大正13年(1924)
⑨土田麦僊「鶉」 大正15年(昭和元年 1926)
⑩土田麦僊「大原女」 昭和2年(1927)
麦僊40歳の作品。「舞子林泉」と同様、日本の伝統的な美を描きながら、西洋の匂いを感じさせる。「麦僊スタイル」はこの頃完成されたといえるだろうか。
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⑪土田麦僊「朝顔」 昭和3年(1928)
⑫土田麦僊「平牀」 昭和8年(1933)
他の麦僊作品はすべて全期間展示だが、この「平牀」だけは後期展示で、みることができなかった。
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展示作品はすべて撮影禁止でした。このnoteに掲載したものは、美術館前の構造物から撮影しました。
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