大阪市の神社と狛犬 ㉒住吉区 ①住吉大社(その6)~堂々たる岡崎型狛犬~
大阪市住吉区の地図と神社
大阪市には、現在24の行政区があります。住吉区は、大阪市の最南部に位置し、大和川を隔てた南は堺市になります。この辺りは、古代には「すみのえ」と呼ばれた海に面した地域で、海上安全の守護神として名高い住吉大社とともに栄えてきました。また、大阪と泉州・紀州を結ぶ紀州街道や熊野街道などの交通の要衝でもありました。
住吉区には由緒ある古い神社がいくつもありますが、まずは摂津国一之宮である住吉大社へお参りするところから始めたいと思います。大阪人にとっては「すみよっさん」と親しまれている神社です。今回は住吉大社の6回目(その6)になります。
住吉大社のすぐ前の道路には、阪堺線の「住吉鳥居前駅」があります。また、この道路を挟んで西側に南海本線「住吉大社駅」があり、交通の便に恵まれています。
住吉大社
■所在地 〒558-0045 大阪市住吉区住吉2-9-89
■主祭神 底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命(神功皇后)
住吉大社には10対を超える狛犬が安置されている。上の境内図の正面参道と平行する南側の脇参道入口の赤色の▲で示した場所に、今回の狛犬6がある。
お知らせ
狛犬6
■奉献年 昭和五十五年庚申歳(1970) 喜寿記念
■作者 戸松幹石材店
■材質 花崗岩
■設置 正面参道と平行する南側脇参道の入口
住吉大社の本宮に通じる正面参道の南北にも、脇参道がある。この脇参道の入口には、住吉型の角鳥居があり、鳥居の手前には狛犬が置かれている。正面の大鳥居の前には、岡崎石工・杉浦磯治郎の狛犬(昭和12年)、北脇参道の鳥居の前には、六世・廣海二三郎奉納の東大寺南大門型の狛犬(昭和18年)があった。そして今回の南脇参道には、次の写真の狛犬が安置されている。
岡崎現代型の堂々とした立派な狛犬だ。「奉献」と彫られた第二台座に「昭和五十五年庚申歳 喜寿記念 長峡町 三科元之 とよ」と記されている。「長峡町」は住吉区内の町名である。
同じ台座の別の面に、「港區尻無川北通二丁目 石匠 奥野元次郎」と彫られている。
これを見た当初は、この磨き上げられた石材の第二台座は、補修か何かでここにはめ込まれたのかと思った。奥野元次郎という石匠は、この第二台座のみを造ったのであろう。大阪の石工が、この量感溢れる岡崎型狛犬を彫ったとは思えない。
さらに下の台座(基壇)を見る。左右どちらにも銘板があり、台座の側面にも銘文が刻まれている。これらの銘文から、この狛犬が設置された経緯が詳しく読み取れると思った。
なんとここにあった狛犬も、北脇参道の狛犬と同じく、先代の青銅狛犬が戦時中の金属回収の犠牲になって、その後継として奉献されたものだった。
それでは、その狛犬はいつ奉献されたのであろうか。
先代?の青銅狛犬
この花崗岩製の狛犬以前に、青銅製の狛犬がここに安置されていたことが、台座に記された銘文からわかった。
大きく「奉獻」と記された下に、まず「大阪金物商宣徳組」の文字が見える。そして大勢の人の名前の最後に、「昭和・・・・・・歳十一月鑄工」と書かれている。残念ながら昭和何年なのかわからないが、「鑄工」の文字から、もとの狛犬が金属製だったことがわかる。おそらく青銅製であろう。「金物商」の集まりが奉献人であることも関係していると思われる。
同時期に書かれたもう1枚の銘文がある。こちらはすべて漢文で書かれている。
銘文の上部と後半はほとんど読み取れない状態だが、想像力を働かせて読むと、だいたい次のような内容になる。
後半は読み取れなくて、かなり省略したが、この「大阪金物商宣徳組」という団体は江戸の天保年間から長年にわたって住吉大社に奉仕し続けてきたことがうかがえる。
最後の「昭和●年」は干支が「戊辰」の年であることから推測すると、昭和3年(1928)でまちがいないだろう。
青銅狛犬のあとを継いだ狛犬
ところで、この狛犬には、さらにもう一つ別の銘文がある。こちらは台座(基壇)に直接刻まれている。
これも写真では読みづらいが、おおよその内容は次のとおりである。
後半はかなり省略したが、この銘文から、昭和3年に奉納された青銅狛犬が、先の大戦で供出されて、その代替として昭和18年にもとの青銅狛犬を原型とした硬化石製の狛犬が、大阪宣徳会によって奉納されたことがわかった。
前回、「住吉大社(その5)~海運王が奉納した東大寺南大門型の狛犬~」で紹介した「五世・廣海二三郎」奉納の青銅狛犬も、同じように供出の運命をたどったが、当時いったいどれだけの青銅狛犬が同じ被害にあったのか、考えただけでもそら恐ろしく残念な気がする。
さて、もう一度、正面南側脇参道入口の狛犬を見てみよう。
これは「岡崎現代型」と呼ばれている狛犬であるが、ほぼ完成形と考えていいだろう。
この狛犬を見ていると、基壇の銘文に「もとの青銅狛犬を原型とした硬化石製の狛犬」をあらためて奉納したという内容に疑問が残る。
いま目の前にある正面南側脇参道入口の狛犬は、ほんとうに青銅狛犬のあとを継いだ狛犬なのであろうか。
岡崎型狛犬
愛知県岡崎市は、現在では数少なくなった国産狛犬を製造する町である。岡崎石工は、岡崎城石垣造成工事のため、大坂から石工集団を呼び寄せたのが始まりである。徳川家康が江戸へ移った後も、家康生誕地として加護を受けて、石屋町を形成し大いに栄えたという。
岡崎市に鎮座する伊賀八幡宮は、慶長年間に社殿の大造営が行われたが、この時も、造営に伴う神橋の修理のために、摂津の国から石工が招かれた。その後、渡り職人として岡崎に住み着いた者の中に、代々「酒井孫兵衛」を名のる石工がいた。
明治後半から大正初期にかけて、オリジナルの狛犬を創作した6代目酒井孫兵衛は、岡崎型狛犬の生みの親と言われている。奉納される狛犬の需要が増加したこの時期、岡崎石工組合副会長の職にあった6代目酒井孫兵衛は、大勢の職人たちに狛犬制作の技術を指導した。こうして量産型の「岡崎型狛犬」が全国に普及していった。
6代目の技術や型は、後の7代目・8代目酒井孫兵衛や、加藤八太郎・戸松庄松ら、多くの石工や弟子たちに受け継がれていった。
6代目酒井孫兵衛は大正14年(1925)、64歳で亡くなる。以後長男の「竹童」が7代目を継ぐが、昭和5年(1930)に45歳の若さで亡くなってしまい、次男の「耕石」が8代目孫兵衛を名乗ることになった。
8代目が活躍した時期は昭和になるが、この頃には孫兵衛狛犬に変化が現れる。6代目が完成した量産タイプから、より造り込みを意識した精悍な狛犬に移行していく。しかし酒井孫兵衛の狛犬は、昭和の中期を最後に途切れてしまうのである。
酒井孫兵衛について長々と書いてしまったのには理由がある。住吉大社のこの狛犬、もしかして孫兵衛の狛犬ではなかろうか、いや、孫兵衛の狛犬だったらいいな・・・、と想像したからだ。
昭和18年(1943)の奉納だから、可能性としては8代目の酒井孫兵衛しかない。しかし残念なことに、石工銘がないのだ。
そんなことを思っていたら、つい最近、岡崎の石匠で、住吉大社の狛犬1の作者である巽彫刻の綱川潔氏のコメントを見つけた。
「戸松」とは戸松庄松のことで、6代目酒井孫兵衛のもとで岡崎型狛犬を受け継いだ石工である。もちろんすでに故人になっているが、その弟子たちが岡崎型狛犬の伝統を受け継いでいる。この狛犬も、「戸松一門」が制作したものだという。
いったいどういうことだろう。詳しいことは綱川氏ご本人から聞くしかない。
といことで、SNSでのやりとりで、次のようなことが判明した。整理してまとめてみたい。
消えた狛犬
これで、今回の住吉大社正面南側脇参道入口の〈狛犬6〉が、第二台座に記されていた「昭和五十五年庚申歳 喜寿記念 長峡町 三科元之 とよ」の狛犬であることがはっきりした。
私は、この第二台座の新しさと、基壇の「昭和十八年十一月 大阪宣徳会」とい銘に、すっかりだまされてしまったのだ。
綱川氏の話を聞き、戸松一門の石工たちが苦労して造ったと知ると、この狛犬がさらに味わい深いものに感じられる。
それにしても、大阪宣徳会が昭和18年に奉納したという狛犬。いったいどこに消えてしまったのでしょうね。
謎です!