大阪市の神社と狛犬 ⑯天王寺区 ②大江神社(その1)~東西の入口を守る狛犬たち~
大阪市天王寺区の地図と神社
大阪市には、現在24の行政区があります。天王寺区は大阪市の中南部に位置し、区域の大半は南北にのびる上町台地上にあります。区名は、聖徳太子建立の日本最古の官営寺院である四天王寺に由来します。区内には約200の社寺があるほか、名所旧跡も多く、歴史と伝統の息づく町といえます。
天王寺区には、神社が11社あります。そのうちの1社は、生野区にある弥栄神社の御旅所です。
今回は、上町台地の夕陽丘にある大江神社に参拝します。大江神社は、四天王寺の鎮守である四天王寺七宮の一つです。夕陽丘の地名は、嘉禎2年(1236)に歌人・藤原家隆がこの地に移り住んで終のすみかとし、住居として「夕陽庵」を設けたことが由来とされています。
最寄り駅は大阪メトロ・谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」で、 徒歩3分ほどの近さです。大江神社は『阪神タイガースファンの聖地』としても有名です。
大江神社
■所在地 〒543-0075 大阪市天王寺区夕陽丘町5-40
■主祭神 豊受大神、素盞嗚尊、大己貴命、少彦名命、欽明天皇
■由緒 社伝によると、四天王寺の鎮守として聖徳太子によって祀られたのが始まりという。当初は、天王寺北村の産土神である豊受大神を祭祀していた。いつの頃からか神仏を混淆して毘沙門天を祀り、四天王寺の乾の方角にあることから「乾の社」と称するようになった。境内に神宮寺が建てられ、祭祀も四天王寺の僧徒が当っていた。明治になって神仏が分離され、大江岸に続いた社地であったところから、大江神社と改められた。
上の境内図は明治35年のものだが、昭和20年の大阪大空襲でほとんどの建物が焼失した。現在の社殿は昭和38年に再建されたものである。
現在大江神社には、東鳥居と西鳥居の前に江戸時代の浪速狛犬が据えられている。明治35年の図にも、おそらく同じ場所に狛犬が描かれている。
本殿・拝殿の建て方は現在とは異なる。図では狛犬の姿はないが、現在は拝殿前に昭和の狛犬が安置されている。
谷町筋から大阪星光学院の北側の道を西に入ると、右手に勝鬘院愛染堂がある。
この前を過ぎると、愛染坂。坂の右手の細い道が大江神社の東参道になる。鳥居の前に石灯籠があり、その前に古い浪速狛犬が安置されている。
狛犬1
■奉献年 宝暦十歳辰六月吉日(1760)
■作者 不明
■材質 花崗岩
■設置 東鳥居前
宝暦10年(1760)奉献の花崗岩製の浪速狛犬である。胸の部分が厚くどっしりと座っている。阿吽とも大きな垂れ耳で、吽形の頭上には真ん中が少しへこんだ枝角がある。互いに対面する形で坐し、顔はやや上向き加減で参拝者側に向けられている。長い流れ毛はゆったりとしていて毛筋を彫らない。おおらかで、かつ威厳を感じさせる狛犬である。
八尾天満宮に、やはり宝暦年間の同タイプの狛犬がある。
宝暦の狛犬さんを後にして、東鳥居を抜けて境内に入る。右手に立派な拝殿があり、その背後に本殿がある。
拝殿のちょうど正面にあたるところにも鳥居が建っている。背後は植え込みで、参道は途切れている。しかし明治35年の境内図を見ると、かつてはこの鳥居が大江神社の正面鳥居だったことがわかる。
お参り前に、境内の西側まで移動すると、長い下りの階段がある。これは「百歳の階段」と名づけられている。説明板には、「この階段は百一段あり、人生の区切り百歳よりあともう一歩、心も体も健康でありますようにと願いを込めて名付けました」と書かれている。下から見上げると、本当に長い。大江神社が台地の上に建てられていることがよくわかる。
この西鳥居前に、幕末安政の浪速狛犬がある。
狛犬2
■奉献年 安政三丙辰四月吉祥日(1856)
■作者 石工 西横堀 泉四郎
■材質 花崗岩
■設置 西鳥居前
江戸末期、安政3年(1856)奉献の浪速狛犬。台座に「傘江戸積問屋」「雲井搆」という文字が書かれているのは奉献者であろう。作者は「石工」という文字までははっきりと読めるが、そのあとの肝心の名前が判読できない。
『狛犬の研究ー大阪府の狛犬ー』には「西横堀 泉四郎」とある。
後方の石鳥居には「寛政五年癸丑五月吉日」(1793)という紀年銘がある。狛犬よりも先輩である。
狛犬は、阿形が大きく口を開く誇張型で、顔の各部が大作りだが、目がつり上がっていないので穏やかに見える。吽形の頭上の角が確認できない。第一台座の側面には模様が入る。
吽形の後方に回ると、左後肢の部分に大きな凹みがある。損傷というにはあまりにもきれいにえぐれている。不思議・・・・・・。
脊柱の並びがよくわかる。
大江神社の境内には、まだ紹介したい狛犬などがあるので、それは次回にしたいと思います。