排除アートから見えるアートの歪み
ベンチの真ん中に、手すりがある。
ベンチが円柱で座りづらい。
これはホームレスを排除する為のデザインである。
このようなアートの悪用はよくある。
作家側も、仕事や実績が欲しくて手を出したりする。アートは権力者の物だった時代から、作家個人の生き方を見せるものへと変化しできた歴史がある。
アートが権威を持つ事はアートの多様性を守ってきた側面がある。一方その権威はアートを難解で敷居の高いものというイメージを与え、世俗から分離しつつある。
アートは展示しなければいけないわけでは無いし、街中に設置されなければいけないものでも無い。
アートはごく個人的な楽しみでも良いし、売れなくて良い。
わからない作品にはわからないと言っていい。
ボクは柳原義達と言う彫刻家の作品が好きで、彼の作品はよく街中でブロンズとして出会う事が多いけど、彼自身、別に作品を展示する事を制作の目的にはしていないようだ。
単純に生物の持つ力を写しとることに面白さを感じている様だ。
確かに彼の言葉を聞く前から作品から明らかに楽しそうな遊んでいる感覚を感じ取れていた。
アートが権力者の物となり、権威で守られていくともう誰のものでもなくなって、市場価値だけで評価される様になってくる。
バンクシーの作品が、良い例だ。
彼の作品には明らかな分かりやすいメッセージがある事が理解できるが、現在の日本で一体どれくらいの人が自分の価値観で彼の作品を評価できているのだろうか?
単純に話題性や市場価値だけで判断されていないだろうか。
東京都が保管しているバンクシーらしき作品は本当に彼の作品かどうかも不明だが、「もしバンクシーの物であったら市場価値がある」と言う理由だけで違法行為であるただのネズミの落書きが公の為政者によって認められたことになる。
東京都は、オリンピックを行うために都内のグラフィティを一掃したのに、バンクシーかも知れない落書きは、大切に保管、展示された。
公の権力が違法行為を認める。
そして人々がその行為を税金を使って行われても黙っている。
この矛盾が面白く、人々がいかに自分の価値観では無く、他人の評価や市場価値と言う権威で者を見てるかが理解できる。
バンクシーの価値はこの馬鹿げた現象を引き起こしたこと自体に価値があると僕は感じている。
この様にアートが市場価値の権威に呑まれていく事によって作家自身もその価値観に呑まれ、排除アートの様なプロジェクトに参加しやすくなる。