落語(66)彼岸花/サンサファ
娘「(歩きながら)うーん、秋晴れのいい天気。(犬に向かって)タロ、今日は雨が上がって良かったね。お前の気の済むまで、いっぱいお散歩をおし。ふふっ、タロったら嬉しそう。犬も人間みたいに笑うんだね。…あ、お母さん見てほら。彼岸花だよ」
母「うん、もうすぐお彼岸だものね。きっと昨日の雨で、一気に花が咲いたんだわ」
娘「綺麗だなぁ。…あ、タロ、こらっ。食べちゃ駄目だよっ。彼岸花には毒があるんだからっ」
母「ふふ、大丈夫よ。ただ匂いを嗅いでるだけだから」
娘「なら、いいけど。…それにしても、本当に綺麗だね。まるで手花火みたい」
母「手花火かぁ…そうねぇ、遠い日の花火…」
娘「え?」
母「ねえ、静子。お前、彼岸花の花言葉知ってる?」
娘「え?…うぅん」
母「情熱、独立、再会、諦め、悲しき思い出…お母さんねぇ、この花を見るたびに、実は毎年思い出す人がいるんだ」
娘「え、誰その人。ねえ、お母さん教えて」
母「そうねぇ。そろそろ静子にも話していい頃かもしれないわねぇ。あれは今からもう十五年以上前のことになるかしら。まだ静子が生まれる前の話よ…」
《以下、母が独身(娘)だった頃の話》
母「あき、ちょっといいかい?」
娘「ん?なに、お母さん」
母「今、ちょうどお客さんいないからさ、ちょいとおかもち持って、菊坂町の伊勢屋さんまでどんぶり回収に行ってきとくれないかい」
娘「うん、いいよ。えーっと、伊勢屋さんって…たしか、あの坂を下ってったとこの質屋さんだよね?わかった。じゃあ、行ってくるね」
母「うん、頼んだよ。…ああ、そろそろ暗くなってきたからさ、気をつけて行くんだよ」
娘「はーい、行ってきまーす。よいしょっと(出前の箱を持つ)…(歩きながら)…えっと、菊坂町はこの辺りでしょ。で、伊勢屋さんはもう少し先の…あ、あったあった。これ、行きは下り坂だからいいけど、帰りは上り坂で大変だろうなぁ。よいしょっと(出前の箱を下ろす)…えっと、ラーメンのどんぶりと、天津飯のお皿、それからスープのお椀と、杏仁豆腐のお椀を回収してっと…うん、忘れ物はないよね。よし、じゃあ行こ。よいしょっ(箱を持って歩く)…ふぅ、ふぅ、やっぱり帰りは重いから、さすがにちょっと難儀だなぁ。ふぅ、ふぅ…」
暴漢1「お嬢〜ぅさん。大変そうだねぇ。代わりに俺っちが持ってあげようか?」
娘「えっ。いや、あの、いいです…」
暴漢1「そんなこと言わずにさぁ、俺っちに持たしてくれよぉ(手を出す)」
娘「やっ、あの、本当に結構ですから…」
暴漢1「いいから、よこせってんだよっ」
娘「(箱を奪われ)あっ…」
暴漢2「へっへっへっ。お嬢さん、こういう時は素直に従うもんだぜ?よし。じゃあ、俺はお嬢さんそのものを持ってあげちゃおっかなぁ(手を出す)」
娘「いやっ、ちょっとやめて下さいっ。は、離して下さいっ…」
暴漢2「おいおい、いま言ったばっかりだろう?こういう好意は、断ったら逆に失礼なんだぜ」
暴漢1「そうだぜ、お嬢さん。夜道の一人歩きは危険だから、俺っちたちが守ってあげようって言ってんだからさ。大人しくしろよ(手を出す)」
娘「ちょっ、やめてっ。…誰かーっ、誰か助けてーっ!」
暴漢2「ちっ、こざかしい小娘めっ。静かにしろいっ」
娘「やっ、やめてっ。誰かーっ、誰かーっ!」
青年「ヤメロ」
暴漢2「ん?…なんだ、てめぇは」
青年「ハナセ」
暴漢1「おい、こら兄ちゃん。おめぇ、なにか?ひょっとして、この女の知り合いか?」
青年「チガウ」
暴漢1「だったら、首突っ込んでくんじゃねぇよ。んぁ?…(まじまじと見て)…しかもおめぇ、もしかして鮮人だろ」
暴漢2「はあ?鮮人?そういや、たしかに発音が少し変だな。鮮人だったら、なおさら俺たち日本人に口出しするんじゃねぇよ。あっち行ってなっ(突き飛ばす)」
青年「(二、三歩後ずさり)シュッ、シュッ(ワンツーパンチで反撃)」
暴漢2「おぅぅ…(よろけて倒れる)」
暴漢1「おっ、おいっ。大丈夫かっ。…てめぇ、この野郎っ(殴りかかる)」
青年「(よけて)シュッ、シュッ、シュッ、シュッ(パンチ連打)」
暴漢1「ぶふぅ…(倒れる)」
青年「(見下ろしながら)フゥー…」
娘「あ、あの…ありがとうございますっ」
青年「(微笑んで)タイジョウブデスカ?」
娘「あ、はい。本当に助かりました」
青年「アナタハ、モシカシテ本郷軒ノ方デスネ?」
娘「あ、はい」
青年「僕ノ家モ、アノ近クデス。ヨカッタラ、コノ箱ハ、僕ガ運ビマス」
娘「あ、ありがとうございます」
青年「テハ、一緒ニ行キマショウ(出前箱を持つ)」
娘「(歩きながら)あ、あのぅ、あなたはもしかして、いつもうちの店に食べに来てくれる…」
青年「ハイ。僕ハ、本郷軒ノラーメンガ、大好キデス」
娘「やっぱり。学生さんですか?」
青年「ハイ。帝国大学ニ通ッテマス」
娘「へぇー、凄い。頭いいんですね。武道もやられてるんですか?」
青年「ハイ。『テッキョン』トイウ朝鮮ノ武術ヲ習ッテマス。今モ、ソノ稽古ノ帰リデシタ」
娘「へぇー、じゃあ文武両道なんですね。かっこいい」
青年「日本人ハ、ミンナイイ人。テモ、中ニハ悪イ人モイル。暗クナッテキタラ、気ヲチュケテ下サイ。ア、チュキマシタネ。テハ、僕ハコレデ、シチュレイシマス(肘に片手を添えながら出前箱を返す)」
娘「はい、今日は本当にありがとうございました。…あの、お名前は?」
青年「僕ノ名前ハ、朴昌洙トイイマス。ヨロシクオネガイシマス」
娘「チャンスさん?素敵な名前ですね」
青年「アリガトゴジャイマス。アナタハ?」
娘「私は、あきって言います」
青年「アキサン。アナタモ、素敵ナ名前デスネ」
娘「ありがとうございます。なんだか照れるなぁ」
青年「テハ、僕ハコレデ、シチュレイシマス。サヨウナラ」
娘「さようなら…(見送って)…チャンスさんかぁ。また、食べに来てくれるかなぁ…」
それから数日後…。
あき「いらっしゃいませ…あ、チャンスさん」
青年「コンニチハ。マタ食ベニ来マシタ」
あき「先日はありがとうございました。さあ、どうぞ座って下さい」
青年「ア、ハイ。アリガトゴジャイマス(座る)」
あき「えっと、今日もいつもの、ラーメンとライスでいいですか?」
青年「ア、ハイ。オネガイシマス」
あき「わかりました。少々お待ちください。…お母さん。ほら、あの人よ。こないだ話した、伊勢屋さんの帰りにあたしを助けてくれた人」
母「ああ、彼ね。いつもラーメンライスを頼む。よし、わかったわ。じゃあ、こないだのお礼として、今日は特別メニューにしてあげましょ。…(厨房に向かって)…えー、2卓さん、ラーメン大盛一丁、チャーハン大盛一丁、えーとそれから、シュウマイ二人前お願いしまーす!」
あき「え、お母さん、いいの?」
母「(ウインクして)いいのよ。あ、もちろんお代はいらないからね。お父さんには後で言っとくから」
あき「ありがとう。チャンスさんきっと喜ぶよ」
母「あら。彼、チャンスさんって言うの?」
あき「うん。帝大の学生さんで、パク・チャンスさんって言うんだって」
母「へぇー。チャンスだなんて、随分とおめでたい名前ね。いつもカタコトで話すから、たぶんアチャラの人だろうなぁとは思ってたけど。最近は帝大にも朝鮮の留学生が増えてきたからねぇ。戸崎町の方には朝鮮人の集落があるっていうし。まあ、そりゃそうよねぇ。植民地のあの人たちからすれば、いちおう日本も自分の国なんだもんねぇ。とは言え、中には『鮮人』呼ばわりする日本人なんかもいて、やっぱり肩身は狭いだろうけどさぁ…あ、さっそくラーメンが出来たみたいよ。ほら、熱いうちに持ってっておやんなさい」
あき「あ、うん…(席まで運び)…お待たせしました。ラーメン大盛です」
青年「エ、オオモリ?」
あき「はい。こないだ助けてくれたお礼にって、母が」
青年「ア、アリガトゴジャイマス」
母「はい、お待たせ。チャーハン大盛と、シュウマイ二人前ね…(据え膳し)…おかわりしたかったら遠慮なく言ってちょうだいね。あ、そうそう。あきから聞いたけど、こないだこの子のこと助けてくれたんですって?その節はどうもお世話さまでした。あ、もちろんこれは気持ちだから、お代のことは心配しなくてもいいのよ」
青年「ア、アリガトゴジャイマス」
母「さ、チャンスさん。冷めないうちに食べてちょうだい。うふふ、ごゆっくり…(移動して)…ちょっと。彼、帝大に通ってるって?へぇー、大したもんだねぇ。あれだけの二枚目で、おまけに頭もいいだなんて。天は二物を与えたね」
あき「でしょう?チャンスさん、この近くに住んでるんだって。うちのラーメンのこと好きだって言ってくれたよ」
母「あたしも彼のこと好きになりそうだわ。ひょっとして、チャンスがあるかしら」
あき「んもう、お母さんったら何バカなこと言ってるの」
母「あら、失礼ね。女はいくつになっても恋よ。恋に歳も国境も関係ないんだから。そうだ、これを機にあたしも朝鮮語習おうかしら。(片言で)カルビヤキ、ホルモンヤキ、チョウセンヅケ」
あき「(吹き出して)もう、お母さん。それ、ほとんど日本語だから」
母「あら、そう?朝鮮語って難しいのねぇ。はっはっはっ」
なんてな具合で、このパク・チャンスという青年は、なかなかの男っぷりのよさ。まあ、この頃で言うところの『韓流スター』というやつですな。ご覧の通り、もう母親はすっかりメロメロのご様子ですが、あきも十七で今がまさに娘盛り。そろそろ、そういった感情が芽生えてきても決しておかしくはない年ごろでありまして。そうなりますてぇと、以心伝心。こちらの気持ちは自然と相手にも伝わるもののようで、やがて二人は交際することと相なります。
あき「わあ、小石川植物園なんて久しぶりに来たなぁ。まだ小さい頃にお父さんとお母さんに連れられて来た記憶があるけど、もうここ何年も来てなかったからなぁ」
青年「コノ植物園ハ、帝国大学ノ研究施設デス。僕モ植物大好キナノデ、タマニ散歩シニ来テイマス」
あき「へぇー、そうなんですね。中でもチャンスさんが好きな植物ってあるんですか?」
青年「ハイ。今日ハ、アキサンニ、ソノ花ヲ見セタクテ、ココヘチュレテ来マシタ」
あき「え、お花ですか?どれどれ?」
青年「コッチ来テクダサイ。サア、コッチコッチ…(移動して)…ホラ、見テクダサイ。コレガ、僕ノイチバン好キナ花デス」
あき「わあ、凄い。一面に彼岸花。まるで絨毯みたい!」
青年「綺麗デショウ?朝鮮デハ、彼岸花ノコトヲ相思花ト呼ビマス」
あき「サンサファ?」
青年「ハイ。互イニ想イアウト言ウ意味デス」
あき「へぇー。じゃあ、相思相愛ってことかぁ。なんだかロマンチック。日本だと、彼岸花は不吉な迷信ばかりあるのに」
青年「ソレハ、スゴクモッタイナイデス。コンナニ素敵デ、ウチュクシイ花ナノニ」
あき「本当にその通りですよね。あたしも小さい頃、とても綺麗だからうちに飾ってもらおうと思って持ち帰ったら、お母さんにひどく叱られたことがあったっけ。『もう、火事になったらどうするの!』って」
青年「僕ノオモニハ…ア、僕ノオ母サンハ、彼岸花ノコトガ、大好キデシタ。僕ハ、オ母サンニ喜ンデモライタイカラ、イチュモ学校ノ帰リニ、彼岸花ヲタクサン摘ンデ帰ッテマシタ。オ母サンハ、『スゴク綺麗ネ』ッテ、トテモ喜ンデクレマシタ」
あき「ふぅーん、そうなんですね。うちのお母さんとは正反対だ。チャンスさんのお母さんって、やっぱり綺麗な人なんだろうなぁ」
青年「アリガトゴジャイマス。ハイ、僕ノオ母サンハ、トテモ綺麗ナ人デシタ」
あき「やっぱりねぇ…ん?『とても綺麗な人でした』?…え、ちょっと待って。チャンスさんのお母さんって、今もご健在なんじゃ…」
青年「残念ナガラ、僕ガ十二歳ノ時ニ、肺ノ病気デ、亡クナリマシタ」
あき「はぁ、そうだったんですね。それはお気の毒に…」
青年「タカラ、彼岸花ヲ見ルト、僕ハイチュモ、オ母サンノコトヲ、思イダシマス」
あき「そっかぁ。じゃあ、チャンスさんにとっては、彼岸花は特別な花なんですね…」
青年「今日ハ、アキサンニ、コノ花ヲ見セルコトガ出来テ、トテモ良カッタデス。僕ノ大好キナ花ヲ、僕ノ大好キナ、アキサンニ見セルコトガ出来テ」
あき「え…(見上げて)…チャンスさん…」
青年「(微笑みながら)来年モ、アナタトコノ花ヲ、一緒ニ見タイ」
あき「チャンスさん…うん。きっと来年も、この彼岸花を、二人で一緒に見ましょう。そう、来年も、再来年も、その先もずっと…」
かくて、相思相愛のあきとチャンス青年との交際は順調に続いていきます。このまま行けば、二人はもう今日明日にでも一緒になっておかしくはないという流れではありましたが、なかなかどうして、現実はそう簡単には行かないようで…。
母「ねえ、あなた。そろそろ、あきとチャンスさんの結婚を認めてあげてもいいんじゃないんですか?もう、二人は一年近くもお付き合いしてるんですよ?」
父「駄目だ。俺は絶対に認めん」
母「もう、どうしてですか?あなただって、チャンスさんの人柄は充分に理解してらっしゃるでしょう?」
父「人柄は認める。それについちゃ申し分ない」
母「だったら何故…やっぱり、朝鮮人だからってことですか?…もう、いつまでそんな堅いこと言ってるんですか。朝鮮人であろうと日本人であろうと、二人が愛し合ってさえいればそれでいいじゃないですか。やっぱり世間の目ですか?体裁を気にしてるんですか?」
父「(腕組みしながら)…国に帰ったらどうするんだ?」
母「え?」
父「彼と一緒になるってことは、あきも今後、朝鮮に渡って暮らすことになるかもしれんのだ」
母「そうなったらそうなったでいいじゃないですか。もともとうちには男の子がいないんだし、この店だって一代限りで終いにするって、あなたいつもそう仰ってるじゃないですか。だったら…」
父「それはいいんだ。俺はなにも後継ぎのことを言ってるんじゃない。ただ…」
母「ただ?」
父「あきは辛いものが大の苦手だろう」
母「…え?それがどうかしたって言うんですか?」
父「まだわからんのか。朝鮮人ってのはなぁ、われわれ日本人が毎日納豆を食べるのと同じで、毎日朝鮮漬けを食って暮らしてるんだ。そんな生活、あきに耐えられるわけがないじゃないか」
母「だったら、朝鮮漬けを食べなきゃいいじゃないですか。べつに日本人にだって、納豆が食べられない人くらいいるでしょうに」
父「いやさ、なにも朝鮮漬けだけじゃない。アチャラの食べ物ってのは、それ以外にも辛いものがわんさかあるんだ」
母「それを言うなら中華料理だって同じじゃないですか。だったら、なんであなたはラーメン屋なんてやってるんですか?」
父「うるさいな。それとこれとは話が別だ…あとそれからなぁ、アチャラの国ってのは平気で犬の肉を食わせたりするんだぞ。そんな野蛮な土地に可愛い娘を住まわすなんて、俺は父親としてそんなことは絶対に出来ん」
母「そうですか。どうしてもあきとチャンスさんの結婚を認めてくれないとおっしゃるんですね?なら、わかりました。代わりにあたしが嫁に行きます」
父「…えぇ?」
母「あきが駄目なら、代わりにあたしがチャンスさんと結婚します」
父「いやいや、お前が嫁になってどうするんだ」
母「んもう、だってぇ、あたしチャンスさんのフアンなんだもの。もう、最近なんか毎晩チャンスさんとランデブーする夢を見て…」
父「おいおい、俺の知らないところでそんな夢を見てたのかお前は」
母「(うっとりした表情で)あたし、夢の中でチャンスさんと手を繋ぎながら、砂浜を歩いているんです。誰もいない海。寄せては返す波。海面がキラキラ輝いてて、遠くの方には貿易船が見えるんです。上空ではトンビが『ピーヒョロロ、ピーヒョロロ』。『あっ』…その時、あたしは不意に波打ち際に一つの貝殻を見つけて、小走りにそれを拾いに行くんです。『ほら見て、チャンスさんっ。まるでこの貝、宝石みたいよっ』…すると、振り返ったあたしに彼は突然、そして情熱的にこう言うんです。…『キヌサーンッ!アナタガ好キデースッ!アナタノコトガッ、大好キデースッ!イチュマデモッ、変ワラナイデーッ!死ヌホドッ、好キダカラーッ!』…」
父「もういいよ、いいよ。わかったからもう、お前の夢の話は。…とにかく、俺はあきと彼との結婚は認めん。あきには正真正銘、純日本人の男と結婚してもらうからな。じゃあ、明日も朝早くから仕込みがあるから、今日はもう寝るぞ。おやすみ」
母「ちょっ、あなた…もうっ」
カラスカァで、明くる日は九月の一日です。この日は、朝方激しい雨に見舞われたかと思うと、その後、嘘のようにカラッと晴れ渡りまして、空には大きな入道雲。やがて昼どきになりまして、本郷軒にも客が三々五々集まってまいります。あきも、母親と一緒に客の応対で忙しく店の中を動き回ります。注文を一手に引き受けた厨房の父親が、腕まくりをしながら調理台の火力を上げたその時でした。
母「はい、野菜炒め定食お待ちどうさまでーす…(据え膳し)…あっ、地震っ。わっ、揺れてる揺れてるっ。けっこう大きいわよっ。きゃーっ!(倒れる)…お客さんっ、皆さんテーブルの下に潜って下さいっ!上から物が落ちてきたら大変っ!頭を守って下さいっ!あ、食器が割れてるから怪我しないようにっ!…あきっ、あんたもほら、早くテーブルの下に隠れてっ!…あなたーっ!今すぐ火を消して下さいっ!早く早くっ、全部よっ、ほら急いでっ!きゃあっ(再び倒れる→這っていき)…あき、大丈夫よ。きっと、きっと、じきに収まるから」
あき「お母さん、怖いよぉ…」
母「大丈夫よ。うん、きっと大丈夫だから、ね。…ほら、だんだん収まってきたわ。もう大丈夫。もう心配いらないわ」
父「くそっ、駄目だっ!鍋の油が飛び散って引火しちまった。こりゃあ、思った以上に火の回りが早いぞっ。…おいっ、きぬっ!今すぐお客さんを全員外に避難させろっ!急げっ、急げっ!」
母「は、はいっ。…お客さーんっ!全員今すぐ店の外へ出て下さいっ!さあ、早く早くっ!…あなたーっ!ほら、何してるんですかっ!あなたも早く外に出なきゃっ!」
父「(バケツで消火しながら)駄目だっ!このままじゃ店が燃えっちまう!俺のことは構わねぇから、お前たちは先に外に出てろっ!」
母「何言ってるの、もう諦めて下さいっ!このままじゃ、あなたも焼け死んじゃうわよっ!さあ、早く逃げてっ!」
父「いいから俺のことは構うなっ!俺はこの火を消すまでは出られねぇっ!お前たちは先に外へ出てろっ!うわぁっ(倒れる)…グッ、ゴホッ、ゴホッ…」
母「はっ、また揺れてるわっ。あなた大丈夫っ!?…(助けに行こうとし)…あっ(倒れる)…うっ、ゲホッ、ゲホッ…」
その時です。煙が充満する店内へ、疾風のごとく飛び込んできた人影がありました。
青年「オカアサンッ、タイジョウブデスカッ!?」
母「はっ、チャンスさんっ」
青年「サアッ、僕ニチュカマッテクダサイッ」
母「はぁっ、はぁっ、ありがとうチャンスさん…(起き上がり)…チャンスさんっ、お願い助けてっ!まだ厨房にっ、主人がっ、主人がっ…!」
青年「ワカリマシタッ、マカセテクダサイッ…(口を抑え厨房へ)…オトウサンッ、タイジョウブデスカッ!?シッカリシテクダサイッ!…ホラッ、僕ノ肩ニチュカマッテッ!」
父「(ぐったりした態で)ああ、チャンスさんか…悪いなぁ…ゲホッ、ゲホッ」
青年「サアッ、立ッテクダサイッ。僕トイッショニ逃ゲマショウッ。サアッ、ハヤクッ…(入口へ向かい)…アァッ(よろける)…マタ揺レテルッ。ハヤク外ニ出ナイトッ。…(天井を見て)…アッ、アブナイッ!オトウサン、ニゲテッ!(父を突き飛ばす)…グアァッ!(梁の下敷きになり)…僕ハダイジョウブッ!イイカラ早ク逃ゲテクダサイッ!早クッ…!」
父「はっ、チャンスさんっ!大丈夫かぁっ!?」
あき「チャンスさんっ!…ねえ、お母さんっ、チャンスさんがっ!梁の下敷きになってる!ねえ、早く助けなきゃっ!」
母「(止めながら)あきっ、駄目よっ、行っちゃ駄目っ!」
あき「だって、チャンスさんがっ、チャンスさんがっ…!」
父「諦めようっ。残念だが、これ以上はもう無理だっ。とにかく、今は俺たちはこの店から離れるんだっ。さあ、早くっ!」
あき「あぁ、チャンスさん…チャンスさーんっ!」
皮肉なことに、パク・チャンス青年は、自身とあきとの結婚に最後まで反対していた父親を助けることで、わずか二十二年というその短い生涯を終えたのでした。その真っ直ぐで情熱的な生き様は、まさに彼岸花そのもののようでした。
《以下、現在のあきと娘との会話に戻る》
娘「へぇー。お母さんには、そんないい人がいたんだぁ。チャンスさんかぁ。きっと、素敵な人だったんだろうなぁ…」
あき「そうよ。本当に素敵な人だったわ」
娘「ねえ、お父さんとチャンスさんと、どっちが素敵?」
あき「えぇ?うーん、そうねぇ…それは、ヒ・ミ・ツ」
娘「え、いいじゃん、教えてよぉ」
あき「だーめ。だって、これ言っちゃったら、お父さん絶対にヘソ曲げちゃうもの」
娘「あ、やっぱりチャンスさんなんだぁ。大丈夫よ、お父さんには黙っといてあげるから。…そっかぁ。お母さんには、そんな儚い思い出があったんだね」
あき「そう、儚いの。だから彼岸花なの(花を触る)」
娘「え?」
あき「ほら、このお花よく見てごらん。葉がないでしょう?」