落語(57)八百善茶漬け
◎江戸時代後期にも現代と同じく空前の食ブームというのがあったそうです。作る際も食べる際も食材や調理法にこだわるのはいつの時代も変わらないようです。そうなりますと、いわゆる『食通』なる者も当然出てくるわけでありまして。 今回のお話は『江戸版ミシュランガイド』の調査員のような二人が、ひょんなことから浅草は山谷にあります八百善という超こだわりの三ツ星料理店に潜入するところから始まりまして…。
通1「うぇーい、ヒック…いやぁ、呑んだ呑んだ」
通2「だな。もう、今小便したら呑んだ酒がそのまま出てくるんじゃないかってくらい呑んだな」
通1「え?お前、いつから酒樽になったんだ?」
通2「バカ、喩えだよ喩え。何も俺の体が酒樽になったってわけじゃねぇんだ。そんなことよりよ、これからどうするよ?」
通1「そうさなぁ、ここをまっつぐ行くってぇと大鳥居、大鳥居と言やぁ大門、大門と言やぁ吉原だ。ってことで、吉原行くか」
通2「吉原ってお前、俺たちは今曲がりなりにも仕事中なんだぜ?うまい酒を呑み、うまい飯を食い歩く、それが俺たちの仕事なんだ。なんせ俺たちは立派な食通であり、料理研究家なんだから」
通1「そりゃ分かってるよ。だからこそ吉原へ行って、うまい女を喰おうてぇんだよ」
通2「何を言ってやんで。料理研究家が『仕事』と称して女喰ってたんじゃ、始末に負えねぇや。まあ冗談はさておき、せっかくここまで来たんだからよ、吉原とは目と鼻の先にある山谷の八百善に行ってみねぇか?」
通1「八百善?聞いたことのねぇ女郎屋だなぁ」
通2「バカ、女郎屋じゃねぇよ。八百善てのは、徳川将軍家も御用達の高級料亭だ」
通1「知ってるよ、ちょいととぼけてみただけだよ。そうだなぁ、俺たちも料理研究家として飯を食ってる以上、一度は八百善で飯を食っておかなきゃいけねぇかもな」
通2「また訳の分からねぇこと言ってやがらぁ。よし、そうと決まりゃあ八百善に向かっていざ鎌倉…もとい、いざ山谷!」
と言うわけで二人の食通は、歴代の将軍もお忍びで通ったという山谷の名店・八百善へとやってまいりまして…。
通1「(メニューを見ながら)うーむ、さすがにどれもお高い品物ばかりだなぁ。何なに…ハリハリ漬、きんとん、海老そうめん、中華玉子、うつろ豆腐、嶺岡豆腐?松皮鯛?鴨真蒸?…何て読むんだか分かんねぇや…。まあ色々あるけど、やっぱり散々呑んできた後だしなぁ、ここはサラッと軽くお茶漬けかなんかでいいんじゃないかなぁ」
通2「おお、お茶漬けいいなぁ、サラッとな。(メニュー見て)えーと、茶漬けはあるかな…あ、あった。『極上の茶漬け』だって。よし、決めた。これにしようぜ」
通1「姐さん、すいません!じゃあ、この茶漬けを二つもらおうかな。よろしくね。…いやぁ、しかしさすがにいい店だな。部屋も広いし、ざっと十二畳はあるよ。おい見てみろ、あすこに富士山が見えるよ。綺麗だね、体に雪の着物を着てらぁ。それでもって、雷さまを下に聞いてんのかねぇ。まさに富士は日本一の山だな。この掛け軸なんかもいい掛け軸だよ。誰が描いたんだい?…あ、『北斎』だって。これ、北斎が描いたんだよ。いい仕事してるねぇ。それからこの飾り扇子もいい扇子だよ。おや、何か書いてあるねぇ。『詩は五山 役者は杜若 傾はかの 芸者は小萬 料理八百善』だって。誰が書いたんだ?…南畝だよ、蜀山人だよ。凄いねぇ、もらっちゃおうかな(懐に入れる)」
通2「おいおい、駄目だよ泥棒しちゃ。何たってここは将軍家御用達の料亭なんだから。見つかったら首が吹っ飛んで、今後料理が食べられなくなっちゃうよ」
通1「冗談だよ、冗談。…それにしても、まあ雰囲気のいい店だ。こりゃあもう、この雰囲気だけで三ツ星あげちゃおうか?」
通2「いやいや、そりゃあいくら何でも早すぎるんじゃないのかい?ちゃんと料理の味との兼ね合いで公正に判断しないと」
通1「まあな。何たって俺たちが星を付けたら、江戸中の人間がその店に殺到するってくらい重要な責務を負ってるんだからな」
通2「そうさ。俺たちが発行してる美食本はいま江戸で一番読まれてる料理本なんだからな。その辺は極めて冷静な目で査定していかないと。…しかし、あれだね。これだけいい店だと、たとえお茶漬け一杯と言えどもちょいと時間がかかりそうだなぁ。…どうだい、ひとつ酒でも頼むかい?」
通1「駄目だよ、お前。酒はもう呑み飽きたってんで酔い覚ましに茶漬け食いにここに来てるんだから。せっかくだから酒なんか飲まねぇで、この良い店の雰囲気を存分に楽しもうじゃねぇか」
通2「まあ、それもそうだな。じゃあ、もう少し大人しく待ってるとするか。しかしよぉ、この畳もこれ、いい畳使ってるよ?これ多分、上井草で作った畳だな…いや、下井草か…いや、井荻だな」
通1「いや、どこで作ったかは分からないけどさ、間違いなくいい畳であることだけは確かだ。この辺りの細かいこだわり、さすが八百善だ」
通2「それから、この座布団もいい座布団だよ?よく薄っぺらな布団のことを『せんべい』なんて言うけどさ、これは例えて言うなら『まんじゅう』みてぇな座布団だな」
通1「何だい、その『まんじゅう』みてぇな座布団てのは」
通2「つまりそれくらい分厚くてふわふわしてるってことだ。何だかこれに座ってるとよ、どこぞの偉いお坊さまになったような気がするなぁ」
通1「それじゃあお前、この店じゃ何も食べられなくなっちゃうよ?何たってお坊さまに生臭は禁物なんだから」
通2「大丈夫さ。俺は生臭いんじゃなくて酒臭いんだから」
通1「うまい!ほら、俺の座布団一枚やるよ」
通2「いや、いいよ。この座布団の上にその座布団を乗せてみろ、ふわふわし過ぎて後ろにひっくり返っちまうわ」
通1「へっ、酒も頼んでないのにひっくり返ってたんじゃ世話ねぇやな」
通2「まったくだ、はっはっはっはっ!…ふぅー、それにしても遅せぇなぁ」
通1「だな。何も俺たちは茶漬けを二十人前頼んだわけじゃないんだからな。たったの二人前なんだから。だとしたら、もうそろそろ出てきてもいい頃だよな?」
通2「でもそこはやっぱりいい店だからよ、もしかしたら丹精込めて作ってるんじゃないのかい?例えば米をよそうんだって、しゃもじでよそわねぇで、箸で一粒一粒つまんでよそってるとかよ」
通1「いや、そんなことしたってどうせすぐお茶ぶっかけちまうんだから無駄じゃねぇか」
通2「いや、そういう見えない所にこだわってこそ、これ名店の証よ」
通1「ふーん、そういうもんかねぇ。…それにしても、俺もだんだん酔いが覚めてきて腹が減ってきちゃったなぁ。鰻でも頼もうか」
通2「いやいや、お茶漬けだってこんなに待たされてるのに鰻なんか頼んでみろ。きっと明日まで出てこねぇよ」
通1「それもそうだな。ハァー……酒でも頼むか」
通2「だな。(手を叩き)すいません、姐さん!酒を冷で二つもらおうかな!」
なんてんで、結局は呑んでしまうわけですが。まあ、とにかくこの八百善てのはお茶漬け一杯がなかなか出てこない。結局その後も半日近く待たされまして、ようやく出てきた茶漬けを食べ終わる頃にはもう夕方。…さてお会計です。
通1「姐さん、勘定頼むよ!(受け取った会計表を見て)えーっ、一両二分!?…おいおい、ちょっと姐さん。これ、何かの間違いじゃないのかい?…え、間違ってない?いや、間違ってるって。だって茶漬けと新香とほんの二、三本酒呑んだだけだよ?それで一両二分はいくら何でもちょっと取り過ぎでしょ。…もう、あなたじゃ話にならないから、亭主を呼びなさい亭主を。ここんちの亭主がいるでしょう。(見送って)…いやぁ、しかし驚いたね。一両二分だって。どういう了見でそういうこと言ってるのかねぇ。亭主の顔が見てみてぇや。…お、来た来た。多分あれが亭主だぞ」
亭主「いやぁ、どうもお客さま。この度は八百善でお食事いただき、誠に有難う存じます」
通1「いやいや、そういうまどろっこしい事はいいからさ。もう一回この代金をちゃんと計算し直してくれないかい?」
亭主「いえ、それでしたら是非に及ばずで。お客さまがお召し上がりになられましたこちらのお茶漬けとお新香で、確かに一両二分に相違ございません」
通1「『相違ございません』ったっておかしいでしょう。一体、お茶漬けのどこにそんなお金がかかってるって言うんだい?」
亭主「では誠に差し出がましいこととは存じますが、これより内訳を申し上げさせていただきます。まず、お新香は春には珍しい瓜と茄子を粕漬けにした物を切り混ぜにしております。さらにお茶は京の玉露、米は越後の一粒選り、玉露に合わせる水は隅田川や荒川の水では合いませんので、わざわざ早飛脚を仕立てて玉川まで汲みに行かせております。よって少々手間賃がかかっております次第でして…」
通1「それじゃ何かい!?あのお茶を淹れるのに、わざわざ玉川まで水を汲みに行ったってのかい!?ひぇー、こら驚いた。道理でいいお茶だなぁとは思ったんだ。…なあ、お前も思ったよな?」
通2「ああ、もちろん思ったよ。これは間違いなく玉川の水を使ってるなって」
通1「だろ?やっぱり茶漬けは断然玉川の水に限るね。いやぁ、さすが八百善だ。恐れ入った」
随分と現金なもんでして、散々文句を言ってたくせに、ちょっといい水を使ってると聞けばコロッと態度が変わりまして。そんなこんなで、その日は納得して八百善を後にしたわけですが。それからしばらくの後、偶然にも玉川の辺りを訪れることになった二人。何かの拍子にヒョイと例の八百善で食べた茶漬けのことを思い出しまして…。
通1「おい、腹減ったな。そろそろ飯にするか」
通2「だな。…そう言えばこの辺りは確か玉川が近かったっけなぁ。玉川と言や八百善の茶漬けだ。あの茶漬けはうまかったなぁ」
通1「うまかったけど高かったな。また食いたいけど、一両二分じゃさすがに手が出ねぇな」
通2「うーむ。…あっ、もしかしてよぉ、この辺りの店で茶漬けを頼めば、みんな当たり前に玉川の水を使ってるんじゃないのかい?」
通1「お前、いいことに気がついたなぁ。まったくその通りだ。しかも、それでいて八百善ほどべらぼうな代金は取らねぇはずだ。何たって、いつでも近くに玉川の水があるんだから。よし、じゃあ早速茶漬けを出してそうな店を探すぞ。…おっ、あすこに小料理屋みてぇなのがあるな。ちょいと覗いてみるか…(店の前まで来て)…ご免下さい、ちょっとお伺いしますが!」
老婆「はいはい、いらっしゃいませ。何でしょうか?」
通1「あのぅ、ひょっとしてこちらは茶漬けを出してますか?」
老婆「ええ、出してますよ」
通1「してその茶漬けの水ってのは、玉川の水を使用してますか?」
老婆「ええ、もちろんです。この辺りの家は、みんな玉川から水を引いてますので」
通1「で、その茶漬けってのはおいくらで?まさか一両二分とかってんじゃないでしょう?」
老婆「いえいえ、まさかそんなには頂きません。ほんの四十文ほどで」
通1「四十文!?あの一両二分の茶漬けが、たったの四十文!?お婆さん、ぜひその茶漬けをあっしらに食わして下さい。お願いします!」
老婆「承知致しました。では準備しますので、ほんの半日ほどお待ち下さい」
通1「えっ、半日!?何でそんなに時間がかかるの?だって玉川の水はいつでも汲めるんだろ?」
老婆「なんせこんな山奥ですからねぇ。いつお客さんが来てくれるものやら分からなくて。ですから水と器以外の物は、注文を受けてから全部浅草(山谷)まで買いに行くんです」
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