【掌編】103万円の壁!?

「はい、完成」

 私は、描きあげた救急車の絵を息子に手渡した。息子は満面の笑みで、キューキューチャ、キューキューチャ、と言って興奮している。

「さあ、次は何がいい?」

 次に描くものを尋ねると、息子は消防車をリクエストしてきた。私は笑顔で引き受けると、さっそく赤い絵の具のチューブを手に取り、パレットへと大量に搾り出した。美大卒業の経歴は、こういう時に役に立つ。もうじき三歳になる息子も、最近は私が割と絵を描くのが得意であることを認識してきたようで、今日のように私がパートに出ないで家にいる日は、ほぼ例外なくスケッチをリクエストしてくる。

 私のパート勤務先は近所のスーパーで、日勤のレジスタッフとして週に三日〜四日働いている。自宅から車で十分の所に私の実家があり、母がいつでも子守をしてくれるため本当ならもっとシフトを入れてもよいところだが、いかんせん『103万円の壁』があるため、どうしても働き控えをしなければいけないのが現状だ。最近は、いよいよその『壁』が間近に迫ってきたこともあり、なおさらこうして日中に家にいることが多くなっている。

「はい、たびたび日本に領空侵犯してくる中国軍の無人偵察機ね」

 一時間ほど経ち、私は息子によるかなりマニアックなリクエスト作品を描きあげると、さすがに少し疲れたので今日はもうおしまいと彼に伝え、絵の具を片付けたーーつもりだった。

 お昼寝するよ、と息子を寝かしつけているうちに自分もまどろんでしまい、気付けば夢の中にいた。そこでは、成長した息子が世界的な画家になっていて、私はどこぞの美術館で彼の作品を後ろ手でしげしげと眺めていた。あの小さかった息子が、私に救急車や消防車のデッサンをねだっていた息子が、いつの間にかこんなに立派な画家になるなんてーー。

 目が覚めると、そこには一面の壁画があった。それは、まるで子供の落書きのようでもあり、それでいて単なる子供のお絵かきとは違う、いわゆる抽象画のようなものだったーー

 いや、やはりこれは子供の落書きだ……。

 なんと、私がぐっすり眠っている間に、息子はそこら辺に置きっぱなしだった絵の具と筆を手に取り、部屋じゅうの壁紙を自身の表現の場にしていたのだ。

 オーマイガッ! なんてことだあああっ!

 私はさっそく内装業者を呼んだ。ちょっとやそっとの落書きならば、あながち自分で落とせないこともないだろうが、さすがにこのスケールでやられてしまっては、もう素人ではお手上げだ。

 業者はすぐにやって来て、手際よく息子の“超大作”を引き取ってくれた。ふう、やれやれ……我ながら末恐ろしい息子を持ってしまったものだ。さて、息子自慢の作品は、果たしていくらで売れたのだろうかーー

「ひゃ、103万円っ……!?」

 請求書の金額を見た私は、そのあまりの高額に、自分でも信じられないほどの素っ頓狂な声を上げていた。それからの記憶はなく、気が付いた時には、もうすでに救急車で運ばれていた。

「で、その請求書を見せた途端に、意識を失ったんですね?」

「はい。おそらくこの奥さんは、工事代を103万円と勘違いしたんだと思います。実際には0が一つ少ない、10万3000円だったんですけどねえ……」

 けたたましいサイレン音をバックに、救急隊員と内装業者による、そんな会話が聞こえていた。

 *

 それから二十年後、息子は世界最高峰の絵画コンクールと名高い『ニューワールドアートコンペティション』で、日本人初となる金筆賞(大賞)を受賞し一躍、世界的な画家となった。そう、かつて私がパート休みの昼下がりに見た夢が、見事に現実化したわけだ。

 やがて私は、息子の個人事務所『オフィスキヨシロー』を立ち上げ、その代表取締役となった。名称の由来は、息子の名前『山下清志郎』による。以後、彼への画家としての仕事依頼は、全て私が窓口となって対応することになった。

 そんな中、息子が生まれてから今日まで、私たち親子が暮らしている日和見市から、駅前広場に巨大壁画を制作してほしいとの依頼があった。私は単純にギャラ次第だと思い、率直にその額を市の担当者にメールで尋ねてみた。そして、そこで返ってきた答えを目にした途端、またぞろ自分でも笑ってしまうほどの素っ頓狂な声を上げていた。

「ひゃっ、103万円……!? なに、この金額……こっちは今や『世界の清志郎』よ? 最低でも1000万円が常識じゃない? 馬鹿にするにもほどがあるわ……」

 それからの記憶はなく、気が付くと救急車で運ばれているようだった。

『で、お母さんはメールの返信を見た直後に、倒れられたということですね?』

『はい。おそらく母は、壁画の制作依頼費を103万円と見間違えたのだと思います。実際には0が一つ多い、1000と30万円だったんですけどね』

 繰り返すサイレン音をバックに、救急隊員と息子による、そんなやりとりが聞こえている。ただし、私の目は依然開くことはなかった。

 *

 私は、薄靄うすもやのかかった見通しの悪い一本道を歩いていた。しばらくすると、大きな壁に行き当たり、必然的に足を止めた。すると、天上界からこのような声が聞こえてきた。

「この壁を越えた先には天国が広がっている。されど、それは同時にお前から、富も地位も名声も、そして命も奪い取るということでもある。さあ、どうする? それでもお前はこの壁を越えるか? それとも引き返して再び娑婆に戻るか?」

 私は、迷わず引き返す方を選択した。まだまだ生きたい。生きて、もっともっと息子の活躍を見ていたいーー。

 *

「母さん、聞こえる? 僕だよ、清志郎だよ」

 目の前に息子の顔があった。傍らから、心拍数を数える電子音が聞こえる。どうやら、病院にいるらしい。私は無事に、一命を取り留めたようだ。

 今回の件を通じて、私はしみじみ思った。

 やはり世の中には、それを越えることで、命取りになる壁があるのだとーー。

(了)




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