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急に終りを意識したこと。
やっと12月らしくなった、空気がキンとした朝。
寒いなぁと、背中を丸めてゴミ出しに行く。
早朝から父にすれちがう。
愛車の電動チャリの荷台に高枝切りばさみをくくりつけ、少し離れた畑の柿の木の様子を見に出かけるところ。
いつもの、元気な父だ。
先月と変わったところと云えば、
自転車用のヘルメット被っていること。
最初はヘルメット着用に文句を言っていたが、根が真面目なので買ったからには使っている。(えらい、えらい!)
もう一つは、先月末がんが見つかり、がん患者になったこと。
だからといって、変わらない。いつもの父なのだけれど(笑)
あれから8ヵ月
今年3月、父に肺がん疑惑が持ち上がった。
その時はがん未満で経過観察となり、以来4ヶ月おきの検査をしている。(その時の顛末記はコチラ↓)
11月下旬、いつもの定期検査を受けた。
後日、気楽に検査結果を訊きに行くと、なんと!初期ではあるが肺がんとの診断を受けた。(ステージⅠA)
あれまあ、、、
幸いなことに、父も(母も)この歳まで大病をしたことがない。
でも、父も84歳。歳に不足はないんだよね。
とうとう来たか、、、という感じ。
うっすらとあった肺の影。
それが、今回少しくっきりとした感じでCTに写ってきた。
主治医の先生の丁寧な説明を神妙に聞いている父母。
動揺しているだろうなぁ、と冷静に二人の表情を読みとりたい私。
先生の、どうされますか、の問いにも、反応がない二人。
「お父さん、(がんを)置いててもしょうがない!取っちゃおうよ!」
私のあっけらかんとした物言いに、看護師さんが笑う。
先生も急に半笑いで、「私もそれがいいと思います。」
「、、、ほじゃあそれで。よろしくお願いします。」と父。
かくして父は手術をすることになった。
そうと決まれば、トントン拍子?に話は運ぶ。
手術の日程を押さえ、逆算して術前検査の日程が組まれる。
あれよあれよと外堀が埋まっていく。
まな板の上の父だった(笑)
それと、、、と先生。
「実はお父さんの肺の年齢ね、95歳なんですよ。」
はぁ? 95?
95歳ぃぃぃーーー???
子どもの頃肺の病気をしていた影響か、父の肺機能は95歳なんだと。
そう言えば、肩で息してる時もあるかも、、、
先生は「これで肺を鍛えておいてほしいんです。」と、器具を一つ紹介してくれた。
ボールが入っている試験管のようなモノ。
繋がった管を吸ってボールを吸い上げ、肺の筋力?を鍛える器具らしい。
「これをできれば一日30回。
術後のリハビリに効果的ですから。」
私の”95ショック”なんてヘでもなさそうに、頑張りましょうねぇ、とにこやかな先生だった。
前置きが長くて恐縮です。
今回のnoteのタイトル【終わりを意識した】のは、
父にがんが見つかったことではなく、
父の肺が95歳といわれたことに関して、私が考えたこと諸々です。
長めの記事ですが暗い話ではないので、良ければお付き合いください!笑
おいおい、95歳って、、、
おそらく、いや、100%。
父のがんは手術で寛解する。問題ないだろう。
だけど、肺が95歳って、、、
私はクラッとしてしまった。
体は動いても、肺がヨボヨボの95歳って、、、
例えば、インフルとかコロナとかで肺炎になったりしたら、たちまちダメなやつじゃんか!
運が悪ければ、あっという間に、、、じゃんか!
昨日もせっせとブロッコリーを植え、庭のキウイを採り、自転車で走り回っていた父が、今、急に小さくなったよう。
父にも終わりは来るんだなあ、、、
84歳だと思っていた父が、魔法が溶けて本当は95歳だった的な。
(ディズニー風に例えてみたけど、一般的には84も95も五十歩百歩だな笑)
一般的には五十歩百歩だろうが、私には寝耳に水。
なんだか急に背中をつつかれた感じがして、落ち着かない。
その場で即、妹とオットにLINEしてしまった(笑)
私はつねづね、父はいつまで生きるんだろう?、と思っていた。
いつも先のこと(旅行の計画や、畑の準備、庭木の選定など)を考えて計画的に動いている父なので、ともすると父は無敵なんじゃないかと思ってしまっていた。
こんなに元気だと、ヘタしたら私のほうが先に逝くんじゃない?
冗談じゃないわ、と。
でも。
こうやって、今日のように少しずつ終わりを見せられていくのだな、と思った。
思ったけれど。
だからといって、ショックだとか寂しいだとかの感情は不思議と無かった。
このドライな私の感情は、ちょっと変わっているのかしらん。
父とは仲が悪いわけでもなく、私が冷酷人間なわけでもなく。
ただ、そうか、父もそんな歳か、と意識できただけ。
それは、私の経験からくる(カッコイイ言い方をすれば)死生観によるものなのかもしれない。
子どものころ
我が家は親戚が多い。
父方も母方も同じ町内だし、父も兄弟も、母の姉妹も、父や母のいとこも、みんなそこいらへんに住んでいる。うじゃうじゃいる。
だからだろうか。
(こんな言い方は不適切かもしれないが)私は小さい時からお葬式や法事に慣れている。
法事はちょっとしたイベント感覚で、お経をいただいた後は折り(仕出し弁当)を食べ、いとこたちと大富豪大会ができる楽しい宴会だった。
まさに浄土真宗の「亡くなった人を偲びながら、みなに会わせていただく」というイベントだった。
以前、仲良しのママ友が親の介護をしていた時、「親が死ぬと思うと怖くて仕方ないんよ。」と言ったことがあった。
そのママ友とは人生観とか子育ての考え方とかで理解しあえる部分が多いのだが、彼女の「死が怖い」という感覚だけはよく解らなかった。
私だって死は怖い。
怖いけれど、人は生きることのゴールに死があって、いつかは誰でも死んでいくのだ。
人をおくって次の世代にバトンをわたす。
そういうことを子どもの頃から何度となく見てきたからかもしれない。
そして、とうとう”父の終わりを意識すること”になり、改めて”父が今生きている”ということをかみしめる。
父の終わりから、私たち次の世代へ!だ。
そんな私の、「心に残る死」を二つ。
祖母のこと
母方の祖母が亡くなったのは、私が30過ぎだった。
肺にがんが見つかったのだが、当時は本人に告知することなく、夫である祖父と長女である母に告知があった。
今では信じられないが、がん告知はトップシークレットだった。
母たち四姉妹は病気を知られてはならないと、ごまかしながら祖母に寄り添っていた。
いよいよ出来る治療もなくなり、せめて痛みを緩和してあげたい、となった。
しかし、それをするには本人にがんを告知し、ホスピス(緩和病棟)に入ることが必要だった。
四姉妹はとうとう祖母に告知し、祖母もホスピスを希望した。
そこからは母たちのホスピス通いが始まった。
(誰かが必ず泊まり込んで祖母を支えた。)
祖母はイチジクが大好物だった。
最後の夏はいよいよイチジクしか食べなくなった祖母。
近所の人が、庭にイチジクが生ると持ってきてくれた。
母たちも、父も叔父も、私も、スーパーでイチジクを探し回った。
夏が終わり、秋になり、冬になり。
最後の最後までイチジクを食べ、祖母は亡くなった。
全員でおくった最期だった。
私は祖母の作る梅酒が大好きだった。
自分はお酒を飲まないのに梅酒を作るのが上手で、蔵の中には梅酒の瓶がごろごろしていた。
遊びに行くと必ず「梅、いるか?」と小学生の私にいう。
梅酒の瓶から梅の実をお玉ですくい、どんぶりに出してくれた。
焼酎に浸かったクラクラするくらい濃くて甘酸っぱい梅の実。
一番大きそうな梅を選んで口に入れた。
私がお酒に強いのは、梅酒の梅を食べてきたからだと思う(笑)
(すでに時効でしょう)
祖母の死後、梅酒はすべて私がいただいた。
ちびりちびりと大切に飲んだ。
私自身も毎年梅酒を作るけれど、祖母の梅酒には到底かなわない。
最後の一瓶がなくなった時、本当に寂しかった。
祖母の二度目の死だ、と思った。
祖父のこと
母方の祖父は寡黙だった。
祖母は大好きだったけれど、祖父は、、、何となく苦手だった。
戦争でケガをしたらしく片方の目が濁っていて、子どもの私はその目が怖くて、祖父と二人になるのは正直嫌だった。
私が泊まりに行っても、いつも夕方は相撲を観ながらの晩酌で、相撲の話しかしない祖父だった。
祖母が亡くなった直後、祖父が不調を訴えた。
祖母と同じく肺がんだった。
もっと早く不調を訴えていれば何とかなったかもしれないのに、母たち四姉妹が祖母につきっきりだったからか、、、
祖父は自分よりも祖母のことを優先させたのだろう。
すでに手遅れだった。
祖父は祖母と入れ替わるようにホスピスに入った。
自分でいよいよ最期と悟ったのだろうか。
みんなに会いたい、自宅に帰ってお酒が飲みたいと、外出を希望した。
祖父宅にみんなが集まり、ご飯を食べた。
祖父のいつものコップに、いつもの半分ほどの日本酒が注がれた。
「うまいのう」と少しだけお酒を飲んだ。
祖父は、集まった全員と乾杯し、一人一人に丁寧に「ありがとう」「世話になった」「幸せだった」と頭をさげた。
全員にお別れを述べると、日本酒を飲み干すことなく救急車でホスピスに戻り、ほどなく亡くなった。
祖母の死からきっちり3ヶ月目の日だった。
私は祖父のことは最期まで苦手だった。
だけど、その最期の姿は温かく、思い残すことなく穏やかに別れを告げて旅立った様子は、何年経っても忘れられない。
戦争に行き、運よくケガをして生きて帰ってきた。
いや、帰ってきてしまった、のか。
だけど、祖父は生ききって、自分の最期を自分の言葉や行動で締めくくった。
言葉数の少ない人だったのに、最期はちゃんと気持ちを口にしなきゃと思ったんだろう。
最後の外出は、みんなが祖父を送るのではなく、祖父自身が残された人にエールを送ったようなお別れの仕方で、生ききるというのはこういう事かと、最期に大切なことを教えてもらったと思っている。
さて、私は、、、
母方の祖母も祖父も。
父方の祖父母だって(良いお別れだった)。
私に何かを残してくれて旅立ってくれた。
人は生き残っている者に何かを残し、残しながら世代交代していくものなのだ、と私は思っている。
だから、私は父ががんだと分かっても、肺年齢が95歳と言われても、(今のところ)とりたててショックではない。
父が何を残すだろうか、どう生ききるだろうか。
ぜんぶ見てやろう、と思っている。
そして、偉そうなことを書いている私もしかりだ。(書きながら気がついたのだけれど!笑)
残る者に私らしい生き方を見せなきゃね、と気持ちを引き締める。
2024年も残り1ヶ月足らず。
父のこともあるが、次女も臨月に突入した。
例年になく忙しない12月である。