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お義母さん、ありがとう。

先日、義母の一周忌を終えた。
早いなぁ、もう一年経つのか、、、

今回は義母のこと。感謝と親愛をこめて。



初対面

オットとのお見合いの席で、私は初めて義母に会った。
もう32年も前のことだ。

私はこのお見合いに乗り気ではなかった。
「いい人だから!」という仲人さんの顔を立てるために一応お見合いはするけれど。
私はオットのお見合い写真がどうにも気にいらなかった。
お相手は絶対3高(高学歴、高身長、高収入)が良い!とかいう、自分のことを棚に上げて選り好みしようなどではない。
写真のオットは性格は良さそうだけど、驚くほど細身(ガリガリ君)で、この人と並ぶと私のおデブさがより一層強調されてしまいそう、、、という私自身の問題。
結婚するなら私より大柄な人が良い。
だから、断ろう。
そう思っていた。

オットと義母、私と母、仲人さん。
ホテルの喫茶室でケーキセットをいただきながらお話をした。
のちにオットが「結婚しようと思ったのは、お見合いの時のkoma8のお母さんが良い人そうだったから。」と言った。
(そうよね、うちのお母さん、ぱっと見いい感じよ。)
オットの母に対する好意的な見方に反して、私はこの時の義母は正直苦手だった。
レンズがピンクのグラデーションという眼鏡の義母。
ドラマに出てくる“〜ザマス”オバサマな感じ!笑
この人の眼鏡チョイスはどうなん?
なんか”やり手のオバサン”っぽい。

そのオバサンはよく喋った。
喋る、喋る!
息子が大好きなんだな〜、自慢の息子なんだな〜。
悪い人ではなさそう?
でも、、、見た目がThe・良妻賢母。
絶対、手ごわいに決まってる!

仲良くできる?
ムリムリ!!
こんなお喋りオバサン、無理ですわ〰(T_T)

でも、縁があってオットと結婚した。
やり手のオバサンが義母になった、、、

試されてる?

寿退社(死語)ののち、私は専業主婦になった。
花嫁修業(死語②!笑)ということで大学生の時から料理教室に通っていた私。
実際は美味しく食べていただけで、家ではほとんど料理をしなかったのだが、結婚したらそうもいかない。
ガリガリのオットも太らせないと、私のデブが目立つし。
私は毎日何時間もかかって料理を作った。

私の頑張り?を聞きつけた義母、初めて一緒に台所に立った時に悪気なく快活に言った。
「koma8さん、ほうれん草の白和えをお願いできる?」

ヒィィィィィーーーーー!

これは、いじめ?、嫁いびり?
白和えは料理教室で習ったことはあったけど、一人で作ったことはなかった。
31年前はGoogle先生もいない、頼りは私の記憶だけ、、、
(25歳の若奥さまが、フツウに白和え作れる?)

くそーーーー!、作りゃあ良いんだろ、作りゃあ。

奇跡的に、ほうれん草の白和え出来ました。
(やればできる子!)

こんな書き方をしておいてアレですが、義母は悪意や嫁いびりなんて感情は全くなく、本当に私が料理が得意だと思い込んでいたよう。
その後も「すし酢を合わせてくれる?」「今年のお雑煮はkoma8さんの味でお願いね。」と。
私の性格が良かったからいいものの、これは普通に嫁姑戦争の案件だ(笑)

この人(義母)、”天然ちゃん”なの?
義母への警戒心は少しづつ溶けていった。


親バカ

結婚して間もない頃、義母と二人で歌舞伎を観に行ったことがあった。
大学生の時に歌舞伎にドハマりしていた私が義母を誘ったのだ。
主演は中村橋之助、今の中村芝翫だった。

”あばたもエクボ”とは、まさにその頃の私!笑
「お義母さん。今日の橋之助さん、Hくん(オット)に似てないですか?」と私。

昔の写真をお借りしたので荒いですが…
あーー、でも、
オット実物はこんなにカッコよくない😅
橋之助さんゴメンナサイ!!🙇


義母も食い気味に「私もそう思ったんよ!」と。
「私が先に言うたら親バカみたいじゃけど、koma8さんもそう思うんなら良かったわ。
Hは橋之助さん似でカッコ良かったんじゃねぇ。」

お義母さんも私も、アノ時はどうかしてました、、、。

でも、結果オーライ!

二人してキャーキャー言いながら橋之助LOVEで観劇したあの日、義母と私は間違いなく以心伝心の母娘になった。


お背中流します

娘たちが小学生くらいまでは、私たち家族と義父母でよく旅行にも行った。
宿はたいてい温泉旅館で、私は義母と一緒に大浴場に行った。

並んで体を洗っていると、必ず義母は「koma8さん、背中流させて。」と言った。
「いやいや、お義母さん。私が先に流しますよ。」と私。
「ええんよ、私がしたいんよ。いつもお世話になっとるけん、今日は流させて。」と義母。

私は人に背中を洗われたくなかったけれど、義母は頑として譲らない。

この構図、知らない人が見たら、どういうこと?って思うじゃん、、、
(この子、なに様?笑)

近い将来、義母の背中を流すのだろうと思っていたが、義母の晩年は病との闘いで、旅行に行くことはなくなった。

歌が大好きで、テレサテンが十八番だった。
毎日ウォーキングをし、週3回水泳をしていた。
(孫とプールに行って得意げにバタフライをして見せた、、、)
虫歯のない綺麗な歯が自慢だった。
(健康の為には自分の歯で食べる!信者の義母)
体に良いといっては、毎朝ブロッコリーとカボチャのソテーを食べていた。
(カボチャの嫌いな義父にも無理やり食べさせた。)
お寿司と中華丼が好き。本当は牡蠣フライとウナギも好きなのに、義父が嫌いだからと自分のためには買わない義母。
(義父にカボチャ攻撃はするくせに!笑)
料理はゆっくりバカ丁寧で、一緒に台所に立つと大雑把な私はイラっとしなくもなかったけれど、義母はお構いなし。
揚げたての天麩羅が冷めようと、庭の南天の葉をあしらう丁寧な盛り付けをした。
孫の誕生日には毎年必ずお赤飯を炊いて届けてくれた。
息子たちを褒めて育てたように、孫たちを私を心底褒めてくれた。

すべてに真面目で心をつくす、そんな義母だった。

義母の闘い

ある時、義母の舌に治らない口内炎のようなものが出来た。
大きな病院の口腔外科に紹介された。
舌がんの始まりだった。
(楽天的な私が心配性の義母を励ますという二人三脚が始まった)
何度も手術し、体調も不安定になった。
味覚もなくなった。
好きなカラオケや、コーラスもやめざるを得なくなった。
歯茎にも転移し、歯茎を削るために自慢の歯(下の左半分)も失った。
食べることに時間がかかり、外食を控えるようになった。
旅行も自信がないと、行くのをやめた。
そのほかにも癌が見つかった。
最後の手術はコロナで面会も叶わず、どんどん認知が進んだ。
義父は義母のオトウチャンになった。
(オトウチャンの義父に夫のところに帰りたいと訴え始め、義父は心が折れた。)
私は義母の弟嫁のヨシコさんになった。
(オットが結婚したのも忘れてしまった)
中脳梗塞になり、食べられなくなり、胃漏を造設した。
(胃漏は半年で取り外し、口から食べられるまでに回復した。)
転んで大腿骨を骨折した。
骨折により寝たきりが常態化し、最期は病院で眠るように亡くなった。

本当は十数行で書けるような闘病ではない。
約15年にわたる義母の苦しい戦いは、家族の決断の葛藤でもあり、本来の楽しい義母の姿を思い出せないくらい長く寂しい晩年だった。


別れ

大腿骨骨折の入院から亡くなるまでは約半年。
この間は、私は義母に会えなかった。
ずっとオンライン面会だったし、いよいよ危ないとなってからの対面面会は10分で人数は二人まで。
二人となると、義父とオット、義父と次男。
私は遠慮した。
ようやく私が義母に会えたのは霊安室だった。
意外と涙は出なかったので、「義理の母なんてこんなもんなのかな。」と思った。

葬儀会館でのお葬式も終盤、最後のお別れに義母の顔を見た時、私は周りが引くぐらい泣き崩れてしまった。
声をあげてワンワン泣いてしまった。
あんな泣き方をしたのは、後にも先にもない。
(葬儀会館の方は号泣する私を娘と思っていたらしい。)

あの時の嗚咽は、なんだったのか。
今もちょいちょい考える。

何もできなかった後悔と、長く苦しい闘病を終えた義母にお疲れさまと言いたかった気持ちと。
もう一つ、私を可愛がってくれた私の家族だから、家族を送る悲しさと。

娘たちは、「自分は(お母さんみたいに)義理のお母さんのためにお葬式であんなに泣けるかなあ、、、」と言った。

まだ、泣けんでしょ。
でも、ホンネで30年付き合ってみ、泣けるよ。



昨日は義母の命日だった。
仏壇にお参りしようと、義実家に行った。
(インドア派の義父が留守のハズがないと、電話もせずに出掛けた。)

義父がまさかのお出掛けだった、、、

命日やろーーーーー!どこ行くねーーん!笑
(わざわざ行ったのに、お参りできなかった、、、)

先週、免許返納をした義父。
昨日はバスに乗ってショッピングモールに行っていたとのこと。
買い物する元気が出てきたなら、それもいい。
お義母さんもお義父さんが元気になってくれたら安心するよ。


お義母さん、長い間、ありがとう。
お義母さんの娘になれて良かったです。

(義母のピアノのお話です🎹)

(一周忌後の義父のお話です☔)




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