言葉に隠された「ものさし」〜能力主義的な見方に縛られない教育を〜

昨今、教育の世界では、学習指導要領に示された資質・能力という言葉が一種の流行(はやり)になっています。
この業界に身をおいていると、この言葉を聞かない日がないくらいよく聞く言葉です。

そして、この言葉は「〇〇力」という言葉とも実に親和性が高いと思われます。しかしながら、その資質・能力という言葉、教育の目標や私たち自身の「力」を語るときに非常に便利な言葉ですが、この言葉を使い続けることにどんな意味があるのでしょうか。少し考察してみたいと思います。

コミュ力への関心こそ「ものさし」

この資質・能力という言葉は「個人に内在している力」を表現している言葉です。つまり、人間の能力向上を叫ぶことと同義であり、すなわち、(人の)スペックに関心を向ける言葉とも取ることができます。

例えば、コミュニケーション力。多くの企業で若者に求めている力であり、もはやこの力がないと採用すらされないのではないかという論調すら見られます。

確かに初めて会った人とも円滑にコミュニケーションが取れたり、その場の雰囲気を「いい感じ」にする人を見ていると心地よいものがあります。しかし、「あの人、コミュ力高いなぁ」と思う自分の中には「ものさし」で人を見る見方が内在しています。そして、その人を好意的に評価すると同時に、その「ものさし」を自分自身に向けてしまうことがあります。

いつの間にか自分に向けられる「ものさし」

自分に向けられた「ものさし」。いつしか、自分への自信や失わせたり、喪失感に似た感情を呼び起こしたりはしないでしょうか。つまり、この場合ですと、その人のコミュ力の高さが、自分の中にある「ものさし」を媒介に、自分自身のコミュニケーションを図ろうとする意欲を奪うことにつながるかもしれないということです。

教育で資質・能力を求めることは・・・

資質・能力という言葉によってに子どもたちにスペックの向上を求めることは、無意識に人間をスペックの良し悪しで判断する「ものさし」を与えてしまうことにつながりかねません。この求めが過剰になるほど、自分を評価する「ものさし」の威力は高まっていきます。そして、自分に向けられた「ものさし」の威力に耐えられなくなった時、子どもたちは自らの可能性を見限り、他者とのつながりを断ち、不登校や引きこもりと呼ばれる状況に身を置くようになるのではないでしょうか。

資質・能力、〇〇力という言葉の「ものさし」、ちょっと注意して使いたいものです。

しかしながら、以上のことは、教師が学習指導要領で求めている資質・能力をそれぞれの子どもに身につけさせることを否定する論調ではありません。教師が今後、この子に身につけてほしい力としての資質・能力にとどめて欲しいということです。

資質・能力の良し悪しを子どもに伝えることを前提にや学級づくりや社会づくりを叫んではいけないということです。その意味で、自己調整能力をつけさせるという名目のルーブリックを作成し、その授業の目標として子どもに示すことにも注意が必要です。

そもそも資質・能力、〇〇力と呼ばれるような力は、その人を取り巻く環境、他者との関係性の中でこそ発揮される相対的な力であるように思います。仮に、コミュニケーション力が全くないと言われる子達が集まったとして、本当にコミュニケーションが行われないかというと、そうではありません。その場には、なんらかのものを媒介として必ずコミュニケーションが生まれるのは多くの人が経験的にわかることでしょう。例えば、赤ちゃん同士の関わりをみているとよくわかります。

私たちはいつの間には言葉に隠された「ものさし」を手に入れてしまっています。だからこそ、無意識で他者を「ものさし」で見てしまうことを自覚し、「ものさし」の奥に隠されたその人の可能性や人と人との関係性によって開かれる世界があることにもっと目を向ける必要があるのではないでしょうか。

ちなみに、コミュニケーションの語源は、コモン、つまり分かち合う、共有するです。人の行為を表す言葉です。コミュニケーションを図るにあたって、良し悪しで判断するのではなく、他者とどのような関係が築かれたのか、その事実を大切にしたいものです。

学校や教育が、言葉という「ものさし」に隠された指標でいつのまにか評価されるのではなく、常に他者との関係を築き、未来に開く場であることを切に願います。

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