『自民党』(中公新書で学ぶ現代日本の政治②)
<中公新書で学ぶ現代日本の政治>の第二回になります。前回取り上げた『日本の選挙 何を変えれば政治は変わるのか』(加藤秀治郎、2003年)は選挙制度を中心とした著書でしたが、そのなかで中選挙区制と総裁選挙の存在が派閥を産んだという話が出てきました。本書『自民党「一強」の実像』(中北浩爾、2017年)は、自民党に派閥が生まれた背景とその周辺、そして派閥の衰退から新たな動きまで知ることができます。議院内閣制をとる日本において戦後ほとんどの時代を政権与党として歩んできた自民党について知ることは、いわば日本の統治機構のコアを知ることに等しいわけですが、本書はその良き道標になると思います。
テーマが現政権ということもあり、ややもすれば様々な先入観が入り乱れがちなところですが、研究者である著者のスタンスとしては「可能な限り客観的な分析を行うように努め、党の文書、機関紙や一般紙の記事などによって裏づけを取るとともに、数量的なデータを提示するようにした」(まえがき)とあるように、単なる政治時評ではない政治学のテキストとして読むことができます。
今回の記事では、本書を教科書にして、特に派閥を補助線にして自民党やこの国の政治体制について勉強していきたいと思います。なお、以下の記述は本書の正確な要約ないしはレジュメという趣旨ではなく、私なりの勉強ノートである点に御留意いただけますと幸いです。
派閥とは何か
派閥が生まれた背景
「○○派」という言葉を見たり聞いたりしますが、これは1955年の自民党結成以来、同党内で形成されてきた派閥のことです。現在の主な派閥には、細田派、竹下派、岸田派、麻生派、石破派、二階派があり、それこそ吉田茂や鳩山一郎を起源にもつ伝統的な派閥もあれば、そこから分裂して生まれたものや、最近になって発足したものもあります。なお、「○○派」は時々の派閥の領袖の苗字をとった通称で、細田派は清和政策研究会(清和研)、竹下派は平成研究会(平成研、旧経世会)などといった正式名称があります。領袖が変わるたびに、例えば清和研ならば森派(森喜朗)→町村派(町村信孝)→細田派(細田博之)などと移り変わっていきます。
これらは自民党に所属する国会議員がまとまって形成しているものですが、単なる同好会のようなものではなく、会長をトップとした会則に拘束される組織機構があり、ビルの一角に事務所を構え、他派閥との掛け持ちは不可であるなど、高度に制度化されていることが特徴です。
そもそも、なぜ派閥のようなものが発生したのでしょうか。前回紹介した著書『日本の選挙』でも触れられていたことですが、これには、自民党総裁が基本的には同党所属の国会議員による投票で決められること、そして長らく中選挙区制(1994年に廃止)が実施されてきたことが関係しています。まず、自民党総裁になるためには過半数の票を得なければならないので、有力議員は派閥を作ってそこに国会議員をプールし、支持固めを行う必要がありました。そして、中選挙区制はこれを可能にするものでした。確認しておくと、中選挙区制は1選挙区に3〜5の定数がある一方で有権者の記名数が1名のみである選挙制度のことです。もし、定数3の選挙区で記名数3ならば、自民党支持の有権者は何も考えず自民党候補3名に記名して投票すればそれで終わりです。しかし、記名数1であれば、有権者は3名の自民党候補から誰かを選ばなくてはなりません。中選挙区制が小選挙区制と異なり人物本位の選挙になり不正や買収の生じるインセンティブが生じうるとされる由縁です。3名の自民党候補者は、それぞれで個人後援会を設置して票固めを行います。さらに、国会議員となった者は地方議員(都道府県から市区町村まで)の選挙活動や陳情処理を省庁のパイプや自らの個人後援会を用いて支援し、結果として国会議員をトップとした系列が成立します。こうして派閥政治の構造は中央から地方の隅々まで行き渡ることとなります。
個人後援会を運営して選挙運動を進めていくためには相当な資金が必要になるので、ここに派閥が資金を供給します。派閥の領袖には、利益誘導の見返りに企業・団体から政治資金を調達する力や、候補者をリクルートする力が求められました。潤沢な資金と候補者をもって、3人区であれば3つの派閥がそれぞれの候補者を擁立できますし、5人区であれば5派閥が出せます。派閥の全盛期であった田中角栄の時代に派閥の数が5に収束したのはこの3〜5という中選挙区制の定数が関係しています。派閥の力添えを受けて当選した国会議員は、総裁選において派閥の領袖を支えます。領袖は人事において派閥内の議員に対して党、省庁、議会のポストを与えたり、新人を教育したり、資金供給を含め様々な世話をして派閥を育てます。そうして、派閥の規模が巨大化していくにつれ、意思決定のプロセスなどが制度的に洗練されるようになってきました。田中角栄の派閥がこれを押し進めました。
族議員
中選挙区制は、族議員を生み出す基盤にもなりました。農林族に代表される族議員とは、省庁別の政策について担当官僚よりも詳しく(農林族なら農林水産省の政策に通暁している)、内閣提出法案の担当省庁による起案段階から関連業界と連絡をとり、官僚に適宜注文をつけていく議員のことです。小選挙区制だと選挙区内の様々な問題をオールラウンドに処理できるような議員が求められるのに対して、中選挙区制なら同じ選挙区に2〜4名の他の候補者がいるので特定の政策に特化した議員が当選を重ねて経験を積んでいく余地があったのです。仮に処理すべき問題が他分野にかかっていた場合でも、族議員は省庁の縦割り主義ではなく、柔軟に横のつながりをもつことができるという点もメリットでした。企業・団体は派閥への投票と献金を行い、族議員はこれに応えるという陳情処理サイクルが出来上がります。また、経世会が建設族や郵政族、清和会が運輸族を揃えるなど、得意分野の住み分けもありました。世論の批判が集中する利益誘導政治であり、金権政治です。
下図のように、族議員は自民党内での法案の事前審査の段階で部会や調査会などに出席し、担当省庁から上がってくる法案に注文をつけ、関連団体の利益を実現しようとします。一方、省庁にとってはこれはできないという部分もあるはずで、部会においてその調整が行われます。政務調査会の最高決定機関である政務審議会を通過したら、自民党の最高決定機関である総務会にかけられます。ここで法案が可決されれば衆参議員に対して党議拘束がかけられます。つまり、国会においてこれに反対すれば造反とみなされ処罰を受けるということです。前回紹介した『日本の選挙』では、この早い段階での党議拘束が国会審議を形骸化させているという指摘がありました。
総裁のリーダーシップの欠如
このように形成されてきた派閥は、竹下内閣発足時にポスト配分などのお互いの利害を調整するための師走会と呼ばれる調整連絡会議を設置し、ここで必要な根回しなどを行うようになります。派閥政治の最終形態です。例えば、所属議員の各種ポストの人事については、派閥に所属する議員数に比例して配分されるという慣行が形成されました。また、議員の序列は当選回数によって序列化されました。
こうなると、自民党は一つの政党というよりも、内部に複数の政党があってそれが一定の緊張関係を持ちつつも連立を組んでいると考えられます。派閥は党内党と呼ばれたりもします。このような状況下では自民党総裁(つまり諸派閥のうちの1派閥の領袖であり、基本的には首相に選出される)が単独でリーダーシップを発揮することは難しいことが分かります。各派閥が利害関係を有していて、合議によってでしかこれを調整できないのであれば、事前の根回しなしに総裁の主導でなにかを決定することは事実上不可能です。上述した法案の事前審査も、関連業界団体と密に連携する族議員や関連省庁との擦り合わせを経て法案が上がってくるボトムアップ形式であり、首相がトップダウンで法案を成立させる慣行は形成されてこなかったのです。
派閥の衰退
契機は1988年6月に発覚したリクルート事件で、派閥政治に対する世論の反発が高まりました。翌年7月の参院選では自民党は大敗を喫し、ねじれ国会となりました。自民党内でも危機感はあったようで、同時期に「政治改革大綱」が採択され、派閥政治の根源を除去すべく比例代表制を加味した小選挙区制の導入が打ち出されました。しかし、自民党内部での対立があり改革は進まず、1993年には宮沢内閣不信任決議案が可決されて衆院は解散します。この前後には、竹下派から羽田孜や小沢一郎らが離脱して新生党を結成したり、また若手の改革派議員も離党して新党さきがけを結成したりするなどしました。これまでの人物本位で利益誘導型の派閥政治から脱却し、政党・政策本位へ、そして自民党総裁=首相のリーダーシップを発揮できるような政治体制への変革を志向する勢力が誕生しました。その結果、1993年7月の総選挙で新党が躍進し、細川内閣が発足するに至ります。これは自民党を含まない諸政党(社会党、新生党、公明党、日本新党、さきがけ等)の連立政権であり、自民党は55年の結成以来初めて野党に転落することとなります。
政治改革(固定票から浮動票へ)
細川内閣で実現された政治改革により上述したような派閥の存在を可能にしていた構造が徐々に解体されていき、弱体化した派閥政治はやがて小泉政権を生み出すこととなります。
まず、中選挙区制に替わって衆院選に小選挙区比例代表並立制が導入されたことにより、小選挙区制においては1選挙区の定数が1となり、派閥がそれぞれの候補者を3名も4名も擁立することは表の食い合いを招くので事実上不可能になりました。これは選挙戦略そのものの変更を迫るものです。
かつてはそれぞれの派閥が中選挙区内に地盤を固めていて、それぞれの個人後援会の支援で当選することができていたわけですが、1人区になってしまうと、自民党として統一して選挙戦を闘う必要が出てきます。その対策の一環として、自民党の各都道府県連(各都道府県に配置された自民党支部連合会のこと)に衆参の選挙区ごとの選挙区支部が作られ、ここが選挙活動の中心とするように編成されました。その支部長には、都道府県連が推薦し、党本部が承認した公認候補者が就任して選挙戦を進めるしくみがつくられました。党に公認権があるため党本部の権力が強化されています。
しかし、党として選挙戦を闘うようになったからといって個人後援会の役割が失われることはありませんでした。小選挙区では有権者は候補者の名前を書くので、立候補者は集票組織としての個人後援会を持っていれば有利であることには変わりなかったからです。中選挙区では同志討ちとなっていた議員の間で名簿の交換が行われたりして、個人後援会は再編・強化されていきました。実際、強力な個人後援会を持つ政治家の地盤を引き継ぐ世襲議員は比較的容易に、かつ安定して当選しています。さらにいえば、自民党から公認を得られなくなった元自民党議員でも、強力な後援会の後ろ盾によって新たな公認候補を破ってしまうという、必ずしも党の権力の増大を示さない例もみられます。
もっとも、以下で述べるように、政治資金の規制強化により企業献金や政治資金パーティーに対する制限が強化されたことで派閥独自で資金を調達することが困難になってからは、後援会の活動も不活性化しており、近年の個人後援会への加入率は衰退の一途を辿っています。自民党所属の国会議員は個人後援会のメンバーの増員をノルマとして課されるようですが、達成は難しいそうです。つまり、強い個人後援会をもつ自民党からの影響力を受けにくい議員と、自民党の公認がないと当選することは難しく党の支配下にある議員とで二極化しているということができます。
また、小選挙区制になって各党候補者への票が一点集中したことにより、候補者はこれまでより多くの得票率を達成しなければ当選できないことになりました。日頃から個人後援会のような集票組織の運営も抜かりなく進める必要がありますが、根っこの固定票の規模が縮小していくなかで、浮動票をいかに動員するか、という問題が立ち上がってきました。つまり、中選挙区制が生んだ族議員のような特定の政策に精通し関連団体の利益を実現するボスではなく、様々な民意を汲み取り、選挙区全体的支持を得られる実務能力の高い議員候補者を公募で選び出し、さらに国民から人気のある自民党総裁=首相が必要とされることになりました。派閥の領袖ではなく世論の支持率の高い政治家が自民党総裁になるというトレンドが、リクルート事件を契機としてこの頃から生まれます。橋本龍太郎も小泉純一郎も安倍晋三も国民からの支持は概ね高いですが派閥の領袖ではありません。
もう一点重要な政治改革は、政治資金に関するものです。まず、企業・団体による献金の制限が強化されました。企業・団体の献金先は政党と政党の政治資金団体だけに限定され(自民党の国民政治協会)、それ以外に対するもは禁止されました。つまり派閥への献金は、政党支部を通して個人が献金を受けるという抜け道はあるものの、事実上困難になりました。また、政党及びその政治資金団体以外の政治団体への献金にあたって、寄付者情報の公開基準が引き下げられ、パーティー券についても、同一の者が20万円以上買うと名前が公表されるようになりました。企業・団体は名前が出ることを嫌い、あまりパーティー券を買わなくなります。一方で、政党交付金が制度化されて得票数に応じて国から党本部に資金が供給されることになりました。つまり、党本部が財政を掌握することになったのです。小泉時代から派閥への資金配分は削減されていき、2010年には完全に廃止されて各議員への直接交付へ切り替わりました。ここでも党本部の権力が強化されました。
陳情処理サイクルについても、政治改革後に党中心に再編成されました。友好団体は業界ごとに団体協議会に組織化され、それに対応する自民党団体総局の関係団体委員会を窓口として陳情を受け付けます。これが政調会の部会で検討され、法改正につながっていきます。ここでは、国会の常任委員会(農林水産委員会や国土交通委員会等)のカテゴライズが政調会の部会に対応しており、部会のカテゴライズは関係団体委員会に対応し、これはさらに団体協議会の業界カテゴライズに対応しています。つまり、国会の委員会から団体協議会まで一対一対応しているということです。ちなみに、2001年に参院選挙で導入された非拘束名簿式比例代表制は、友好団体が自ら候補者を立てることで選挙活動を活発化させるために調整されたしくみのようです。
しかしながら、個人後援会と同様に友好団体への加入率は低調であり票固めは心細くなっており、さらにバブル崩壊で財政状況が悪化するなどして資金面でも弱体化しています。結局、ここでも派閥や友好団体とは無関係の浮動票を確保する重要性が高まってきたのです。「古い自民党をぶっ壊す」と言って自民党総裁=首相になった小泉純一郎はこうした背景から生まれた新しいタイプの政治家であり、2005年の郵政総選挙は浮動票を動員して勝利した選挙でした。
ちなみに、2009年の民主党への政権交代もまた浮動票によるものでありました。これで辛酸を舐めた安倍総理は、固定票の確保へと再び舵を切りつつ、他方で利益誘導政治にも戻りすぎない中間点を探ってきたとされ、その形がアベノミクスでした。
派閥のその後
ここまでを大雑把にまとめると、中選挙区制と総裁選の存在によって生まれた派閥による合議体としての自民党から、1994年の一連の政治改革によって党執行部が権限を持つ、党としての自民党へ変容していったということでしょうか。
総裁選のための支持基盤作りとしての派閥は、政治改革を通してそれを維持するインセンティヴが失われたものの、現在も岸田派や二階派などといわれるように、存在が消えたわけではありません。総裁選は今でも続いており、これに勝つためにはやはり派閥からの支持が必要であるからです。前回紹介した『日本の選挙』では、党本位を実現するための改革の一環として、総裁選を廃止するべきであり、そのために衆参選挙の立候補者に予め誰を総裁にするか明言させるというドイツ方式をとるべきだという提言がありました。
総裁選がある以上は派閥の役割は消えないわけですが、集票装置としての目的は確かに弱まりました。その一方で、今まで背景にあった機能が相対的に重要になってくるという現象がみられます。例えば、派閥の純粋な人的ネットワークとしての意味合いです。また、かつてのように派閥が党の方針を合議するということはなくなり、党の方針を派閥経由で各議員に伝える上意下達の方向性が生まれています。
また、非イデオロギー的なまとまりだった派閥に対して、思想信条を共有する議員たちの理念グループの台頭もみられます。例えば、中川昭一を会長とした真・保守政策研究会の後続組織として安倍晋三を会長とする創生日本があり、反民主党としてのスタンスを明確にしてきた安倍自民党総裁の支持勢力となりました。現在の安倍政権は、公明党との選挙での協力関係を維持し、また経済政策や地方活性などで固定票を固めつつ、他方では浮動票の不活性、つまり投票率の低さによって助けられている面もあります。
今回の勉強ノートでは派閥の栄枯盛衰をみながら、できるだけ固有名詞を使わずに原理原則に焦点をあてるようにしました。最近では、お魚券・お肉券が利益誘導ではないかとか、参院広島区で当選した河井議員関連では広島県連と官邸の対立があったようだとか、今回触れた件に関わる問題がニュースになっています。このような日頃に接するニュースを調べていくことで具体的な部分を補っていければ良いかなと思います。