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振り分けは生まれる前から始まっている

下の子が通った麦っ子畑保育園は、何十年もの間毎年、就学時健診の学びをしていた。

発達障害の子を持つ親の話を聞いたり、そういう悩みを抱えた人の相談者をしてる人の話を聞いたり。その後は、みんなで意見交換をした。

小学校に入学する前年の秋頃、新入学児の家に就学時健診の案内のはがきが届く。これは、入学前に健診や簡単なテストを受けたり、先生に相談したりするものだが、主催が小学校ではなく、教育委員会となっている。これの本来の目的は、実は振り分けということなのだ。健診は入学後にもするので実は必要ない。入学後にするものをなぜ、入学前にするのか。就学前健診は、健診や簡単なテストをしながら、普通クラス、支援クラス、特別支援学校などに振り分ける目的で行われている。

私は、このことを聞いた時に自分が就学前健診を受けている時の記憶が蘇った。母親の横で、先生にこの図形を使って三角形を作って、と言われるが全然分からなくて焦った記憶。
難病だった私は、幼少時のほとんどを入院して過ごしていた。薬の副作用で成長も止まり、体が小さくていろんなことが遅れていた。みんなが通う近隣の幼稚園に全て断られ、ようやく見つけた幼稚園は無認可で、越境して通った。それも病気でほとんど行くことができなかった。私を受け入れてくれる学校がないかもしれない、その焦りだった。

いろんな記憶を思い出した就学前健診の学びの日。あれは振り分けだったのか、、と思わされたのである。勉強会に出たみんなからも、いろんな意見が出た。
特別支援は経験を積んだ先生が丁寧に教えるから、逆に障害を持つ子にはストレスがなく、親も子もそれを望んでいる。
小学校も支援クラスとの交流日があり、みんなとても楽しく遊んでいた、見ていていいな、と思った。それで問題がないように思えた。
麦っ子はどんな障害の子でも受け入れて、ごちゃまぜ保育で大好きだけど、小学校からは今の義務教育しかないから先が心配、いくらいいと思ってやっても社会は変わらないから、卒業後継続できないから意味ない、苦しいだけ、など。

京都にいた時に、自閉症を持つママ友がいた。上の子の5コ上だったので小学校事情がよくわかっていなかったが、そのママ友は地元の小学校に通わせたかったのに、特別支援学校に行きなさいと言われたと。話し合っても受け入れてもらえないから、うちの子でも入れる小学校を大阪に見つけ引っ越すと話し、引っ越した。その学校が映画にもなった「みんなの学校」の小学校だったのだ。そこは、公立の小学校だが障害を持つ子もみんな一緒に勉強している。ボランティアも沢山サポートしている学校。麦っ子の小学校版とまでらはいかないが、その点、近いものがあった。

麦っ子にも、高機能自閉症やアスペルガー症候群の障害を持つ子がかつていたそうだ。電話帳をぱっと見て一瞬で全て記憶してしまう能力を持つが、他者との関係が築けなかった。でも、麦っ子でいろんな子とごちゃごちゃと、時間と場を共有するうちに友達と何となく遊ぶようになった。すると、一瞬で記憶する能力がなくなったのだそうだ。

前の職場に、他者とのコミュニケーションをとれない子を持つお母さんがいた。友達と遊んでいても突然大声を出したり、ゲーム中のものをぐちゃぐちゃにしたりするから、友達がいないし、誰も遊んでくれないと話していた。『じゃ、学校が終わったら誰と遊んでるの?』と聞くと、『ずっと私(母親)だけ』と話す。
幼少時は療育に通い、マンツーマンで経験を積んだ先生と遊びながら、社会の中で生きられるようにとトレーニングされる。その時も友達と遊んでいない。小学校からはお母さんと二人で遊んでいる。私は友達と楽しく遊んだ思い出のないことを想像して、胸がしめつけられた。

小児科医の真弓定夫先生が、子供は群れをなして遊ぶもの、それが元気の源と話された。大人との遊び、ゲームでの遊びは遊びではない。群れをなして遊ぶのが子供の仕事で、そういう社会にするのが元気な子供を育てることに繋がると。

麦っ子の園長みこべは、こう話す。療育とかである程度トレーニングすると、前よりも上手く歩けたり、話せたりできるようになるかもしれない。でも、上手く歩けなくてもゆっくり自分のペースで歩けばいいし、大事なことは上手く歩くことではなく、うまく歩けないから仲間に助けてほしいと話せること、助けてくれる仲間を作ることだと。

下の子のクラスには、言葉を話さない子がいた。心のおもむくままに行動し、納得いかないと動かない。心が騒ぐと友達の髪を強く引っ張り続けるのだ。でも、どこまでも愛おしい存在、人気者だった。麦っ子では、一緒に食べて、一緒に行動し、共に場を積み重ねる。この子は、こういう障害があるから、こうしてあげてね、とは言わない。一緒にすごしているとみんなそれぞれ違うことが子供ながらに分かる。それは、障害という視点ではなく、個性だと思うようになる。その個性が愛おしくなる。大人の説明は必要ない。できないことは助ければいいと教えなくても自然にするようになる。その子はたまに静かに抱きついてくるそうだ。下の子はその時、静かに受け止めて共有する。その子が離れると、○○、お話してくれてありがとう、と言うそうだ。ある子も◯◯がわたしの髪の毛を引っ張るのはわたしを好きだからと話す。髪を引っ張られても、きっと落ち着いたら、手を離してくれると信じているのだ。これは、言葉で教えてもらったからではない。同じ時間と同じ場を共有し、言葉ではないコミュニケーションを積み重ねてきたから分かるものなのだと思うし、いくら言葉で言っても伝わらないことなのだと思う。

相模原のやまゆり園の事件。あの犠牲者が関係者にもいた。絶対にもう繰り返してはならない事件。麦っ子のようにいろんな人がいて、いろんな人と場を共有していれば、みんなが違う存在で、愛おしい存在なんだと思えるようになるのではないか。不要な人、不要でない人、生産性のある人、ない人、優生学を生まないのではないかと麦っ子を見てると思える。

私は、教育委員会に就学前健診は振り分け目的なので、反対なので受けませんと電話した。今は前列があるようで、すぐ受理されたが家まで保健師が子供の様子を見に来た。

園長みこべの旦那のんちゃんは、今の小学校は振り分けられたいろんな子のいない異常な状態だと話す。分断された異常な集まりの小学校、それが日本の小学校。

実は、振り分けは生まれる前、妊娠前検診から始まる。3カ月時、1歳時、1歳半時、3歳時など健診時に言葉が遅いので、言葉の学校に行ってください、療育に行ってくださいと言われ、予防接種受けないのは、虐待を疑われる。発達曲線の枠外になると不安を抱き、うちの子は成長が遅い、あれができてない、これができてないと他者と比較ばかりし、不安が続く。私たちは常に分断の世界にいるのだ。

なぜ、常に決められた枠を作り続けられ、みんなその枠にはまろう、はまろうと躍起になるのか。枠外では生きられないのか、枠外では幸せでないのか。いけないことなのか。

いろんな動植物がいて、豊かな森になるように、いろんな動植物がいるからこそ、美しい川となり、きれいな海となるように、人間もいろんな人がいて、豊かな社会になるのだと思っている。

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