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[斎王からの伝言創作ベース]2能楽

 能を舞台で観たことがありません。能が何かも知りません。でもなぜか昔から気になっていました。テレビで能を見ると眠くなります。言葉の意味もストーリーも分かりません。でも頭の片隅に残ります。
 
 斎王となった白河天皇皇女 媞子(ていし/やすこ)内親王(1076年- 1096年)は神道的行事が起源のルーツが曖昧な田楽がとてもお好きだったそうです。何やら人の根本、魂のようなものを揺り動かし共鳴させて響かせる力があるのではないかと考えています。

 とは一体なんなのか、どんなルーツなのか調べてみました。
奈良時代中国から「雅楽」と「散楽」が渡ってきて、荘厳な舞や音楽を奏でる「雅楽」が宮中や貴族の儀式として使われ、「散楽」は滑稽な芸や物まね、曲芸、奇術の大衆芸能だった為、当初は朝廷が管理していましたが、やがて寺社や庶民の余興として浸透していったみたいです。この滑稽な芸「散楽」が源流だそうです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ➡[奈良時代] 
 中国から渡ってきた「散楽」を朝廷が管理
・桓武天皇の時代782年に散楽戸制度は廃止され、散楽師達が寺社や庶民の間で芸を披露していき余興として広まる
 
➡[平安時代] 
 散楽の物真似芸とそれまでにあった古来の芸能と結びついて、物まねなどを中心とした滑稽な笑いの芸・寸劇に発展。芝居(能)の要素が加わり「猿楽」が出来上がる。

➡[平安時代中期頃] 
 神道的行事が起源の「田楽」や、仏教の寺院で行われた「延年」などの芸能も興り、それぞれ発達。これらの演者は農民や僧侶。

➡[平安時代末期頃] 
 「田楽」や「延年」の専門的に演じる職業集団も成立していく。

➡[平安時代後期から鎌倉時代初期]
 申楽・田楽・延年は、互いに影響を及ぼしあい発展していく。同業組合としての座が生まれ、寺社の保護を受けるようになる。

➡[鎌倉時代(1185年頃 - 1333年)] 
 平安時代に成立した初期の申楽とは異なる芸態の呪術的な「翁申楽」が出現。
 翁申楽は寺社の法会や祭礼に取り入れられたため、申楽は寺社との結びつきを強め、座を組織して公演を催す集団も各地に現れた。一部の申楽の座は、寺社の庇護を得て、その祭礼の際などに芸を披露した。最初は余興的なものとして扱われていたが、寺社の祭礼の中に申楽が重要な要素として組み込まれるような現象も起き始めた。

 寺社の由来や神仏と人々の関わり方を解説するために、申楽の座が寸劇を演じるようなこともあった。
これらがやがて、「申楽(猿樂)の能」となり、公家や武家の庇護をも得つつ、能や狂言に発展していったと言われている。
 田楽に演劇的な要素が加わって「田楽能」と称されるようになった

➡[南北朝時代(1336年―1392年)] 
 猿楽の滑稽な物まね芸を指す言葉を「狂言」とする

➡[南北朝~室町時代(1336年―1573年)] 
 武家が田楽を保護するようになり、それとともに衣装や小道具・舞台も豪華なものになっていった。このような状況の中、大和申楽の一座である結崎座より申楽師、観阿弥(1333年~1384年)が現れ、旋律に富んだ白拍子の舞である曲舞などを導入して、従来の申楽に大きな革新をもたらした。

 申楽は平安時代には中央的ではなかったが、室町時代になると寺社との結びつきを背景に、延年や田楽の能(物真似や滑稽芸ではない芸能)を取り入れ、現在の能楽とほぼ同等の芸能として集大成された。

 1375年、室町幕府の三代将軍足利義満は、京都の今熊野において、観阿弥とその息子の世阿弥(1363年 - 1443年)による申楽を鑑賞した。彼らの芸に感銘を受けた義満は、観阿弥・世阿弥親子の結崎座を庇護した。これがのちの観世座の前身である。この結果、彼らは足利義満という庇護者、そして武家社会という観客を手に入れることとなった。また二条良基をはじめとする京都の公家社会との接点も生まれ、これら上流階級の文化を取り入れることで、彼らは申楽をさらに洗練していった。
 その後、六代将軍足利義教も世阿弥の甥音阿弥を高く評価し、その庇護者となった。こうして歴代の観世大夫たちは、時の権力と結びつきながら、申楽を発展させ現在の能の原型として完成させた。

 なお、室町時代に成立した大和申楽の外山座(とびざ)・結崎座(ゆうさきざ)・坂戸座(さかどざ)・円満井座(えんまいざ)を大和四座(やまとしざ)と呼ぶ。それぞれ、後の宝生座・観世座・金剛座・金春座につながるとする説が有力である。

 民衆を対象として仏教の教義を見せる勧進興行において、それまで「翁申楽」のような呪術的性格を持っていた(超自然の存在を主な観客と想定していた)例式に対し、いわば余興芸として演じられた「申楽能」は生身の人々を主な観客と想定する芸能へと進化していった。

 世阿弥の没後も、甥・音阿弥、娘婿・金春禅竹などにより、能は発展を続けますが、応仁の乱による都の荒廃とともに衰退していった。

[戦国時代 1467年(1493年)– 1590年]
 戦国時代には、猿楽の芸の内容に大きな発展はなかったと考えられているが、申楽は織田信長や豊臣秀吉ら時の権力者に引き続き愛好されていた。

➡[安土桃山時代( 1573年 – 1603年)]
 1593年10月には秀吉は後陽成天皇の前で、3日間続けて何番もの申楽を演じている。しかしその一方で、秀吉は大和四座以外の申楽には興味を示さなかったため、この時期に多くの申楽の座が消滅していった。いわば、現在能と称されている猿楽が、それ以外の申楽から秀吉によって選別されたのである。

➡[江戸時代(1603年 ―1868年)]
 徳川家康や秀忠、家光など歴代の将軍が猿楽を好んだため、猿楽は武家社会の文化資本として大きな意味合いを持つようになった。また猿楽は武家社会における典礼用の正式な音楽(式楽)も担当することとなり、各藩がお抱えの猿楽師を雇うようになった。

 なお、家康も秀吉と同じく大和四座を保護していたが、秀忠は大和四座を離れた申楽師であった喜多七太夫長能に保護を与え、1615年から1624年に喜多流の創設を認めている。
 家康は観世座を好み、秀忠や家光は喜多流を好んだとされるが、綱吉は宝生流を好んだため、綱吉の治世に加賀藩や尾張藩がお抱え猿楽師を金春流から宝生流に入れ替えたと言われている。

➡[明治期(1868年 – 1912年)]
 新たに財閥や政府要人のバックアップも得て、一般の人びとが楽しめる芸能として、盛り返す。家元制度の導入、能と狂言を合わせて「能楽」としたこと、能舞台を屋内に組み込む能楽堂という舞台形態の確立は、明治期以降になされた。現在では、近代的に生まれ変わった家元制度のもと、能は「謡」や「仕舞」のお稽古事としても、裾野を広げている。

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 観世流 能楽師 宮内美樹さん https://www.shuuseikai.jp/

「能は悲惨な人生を歩んだ負け組が怨念を持って死んでいった彼らの霊を弔う芸能です。大きな流れとしては、罪を犯して地獄に落ちた負け組が、生前の行いを反省し、その気持ちを汲んだお坊さんが彼らを許し、来世に送るストーリーです。
劇を通じて、過去の人間の苦しみや悲しみを知って、未来をどう生きればいいか考える。これが能の醍醐味だと分かりました。
舞台に立ってみて、負け組を演じる能楽師の心意気にも気づきました。能の舞台は、足場がとても高く、一歩踏み外せば大怪我につながります。その舞台上を、ほとんど周りが見えない能面をつけ、重さ20キロにもなる衣装を着て舞うのです。舞台の上では、本当に死と隣り合わせ。この過酷な環境で演じるからこそ、負け組の苦しさを表現できるのかもしれないと思いました。
負け組のような惨い人生を経験してこなかった演者が、負け組を演じようとしてもやはり限界があります。修行から舞台の仕組みまで厳しい環境にさらされ続けるからこそ、負け組を演じきることができるんです。能の世界は全て繋がっているんだなと思うと、修行の辛さが気にならなくなりました。」

 負け組の無念さを全力で演じて、昇華させるという離れ業を行う能楽師。御霊信仰に通じるものを感じます。日本独特の生死観を表現しいて観ている人の負の念を昇華すると同時に慰めてくれているように思えます。能は、未来を生きるためのヒントであると同時にあの世へ逝く心構えを伝える窓口なのではないかと思いました。

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~Wikipedia・https://www.nohgaku.or.jp/encyclopedia/whats/history.html
より~

能の歴史

散楽から猿楽へ
は、奈良時代に中国から渡来した「✳1散楽(さんがく)」という芸能を源流としています。奈良時代には、滑稽な芸や物まね、曲芸、奇術など大衆芸能であった「散楽」と、荘厳な舞や音楽を奏でる「雅楽」が、中国から渡ってきました。雅楽は、宮中や貴族の儀式の際に演じられる式楽となり、散楽は、寺社の余興として庶民の間に広まっていきました。

その後、散楽は幾多の変遷を経ながら、と✳2狂言の要素をもつ「✳3猿楽(さるがく)」に集約されてゆきます。平安・鎌倉から江戸時代までは、能は「猿楽」あるいは「猿楽の能」と呼ばれていました。
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✳1散楽…正倉院宝物の「墨絵弾弓(すみえのだんきゅう)」に描かれた「散楽図」などから推測される限りでは、軽業や手品、物真似、曲芸、歌舞音曲など様々な芸能が含まれていたものとされる。朝廷は散楽師の養成機関「散樂戸」を設けるなどし、この芸能の保護を図ったが、桓武天皇の時代に散楽戸は廃止され寺社や庶民に広がっていく。
 
 日本の奈良時代に大陸から移入された、物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、娯楽的要素の濃い芸能の総称。日本の諸芸能のうち、演芸など大衆芸能的なものの起源とされている。

移入期 
起源は西域の諸芸能とされる。何世紀にも亘って、中央アジア、西アジア、アレクサンドリアや古代ギリシア、古代ローマなどの芸能が、シルクロード経由で徐々に中国に持ち込まれていった。それら諸芸の総称として、また、宮廷芸能である雅楽に対するものとして、「一定の決まりのない不正規な音楽」の意で中国の隋代に「散楽」と名付けられたというが、実際にはもっと古く、周や漢の時代には既に散楽と呼ばれる民間の俗楽(古散楽)が行われていたとも言われている。後漢以降の時代には、火を吐く、刀を飲む、水に潜り魚の真似をするなどの奇抜な曲芸から、隋や唐では百戯とも称された。

日本へは奈良時代に、他の大陸文化と共に移入された。しかしそれより以前に、大陸から渡っていた可能性も否定できない。

日本における散楽の歴史を紐解く上で資料となるのは、それが宮中で行われていた時代の史書『続日本紀』や『日本三代実録』などである。『続日本紀』には、735年に聖武天皇が、唐人による唐・新羅の音楽の演奏と弄槍(ほこゆけ)の軽業芸を見たという記述がある。これが、散楽についての最初の記録とされる。天平年間のいずれかに、雅楽寮に散楽戸がおかれ、朝廷によって保護される芸能となった。752年の東大寺大仏開眼供養法会には、他の芸能と共に散楽が奉納された。しかしその庶民性の強さや猥雑さからか、桓武天皇の時代782年に散楽戸制度は廃止された。

散楽戸廃止以降 
とはいえ宮中で全く演じられなくなったわけではない。平安時代になると、宴席で余興的に行われるようになった。例えば『日本三代実録』によると、837年に仁明天皇が、弄玉(ろうぎょく)、弄刀(今で言うジャグリングのような曲芸)の散楽を演じさせたとの記録がある。他にも『日本三代実録』には、御霊会などの余興として散楽が演じられたとする記述があって注目されるが、中でも880年に相撲節会の余興として演じられた散楽は、演者がほとんど馬鹿者のようで、人々を大いに笑わせたとある。当時の散楽師が曲芸だけでなく、今の狂言に通じる滑稽物真似的な芸もしていたことが窺える貴重な記録である。

散楽戸の廃止で朝廷の保護を外れたことにより、散楽は寺社や街頭などで以前より自由に演じられ、庶民の目に触れるようになっていった。そして都で散楽を見た地方出身者らによって、日本各地に広まっていった。やがて各地を巡り散楽を披露する集団も現れ始めた。こういった集団は後に、猿楽や田楽の座に、あるいは漂泊の民である傀儡師たちに、吸収、あるいは変質していった。

963年村上天皇により、宮中では散楽の実演は全く行われなくなった。以降、散楽という言葉に集約される雑芸群は、民間に広まった様々な職業芸能に引き継がれていく。鎌倉時代に入ると、散楽という言葉もほとんど使われなくなった。

その後の系譜 
散楽のうちの物真似芸を起源とする猿楽は、後に観阿弥、世阿弥らによって能へと発展した。曲芸的な要素の一部は、後に歌舞伎に引き継がれた。滑稽芸は狂言や笑いを扱う演芸になり、独自の芸能文化を築いていった。奇術は近世初期に「手妻(てづま:奇術)」となった。散楽のうち人形を使った諸芸は傀儡(くぐつ)となり、やがて人形浄瑠璃(文楽)へと引き継がれていった。このように、散楽が後世の芸能に及ぼした影響には計り知れないものがある。

✳2狂言…道理に合わない物言いや飾り立てた言葉を意味する仏教用語の「狂言綺語」に由来する。さらに一般名詞として、滑稽な振る舞いや、冗談や嘘、人をだます意図を持って仕組まれた行いなどを指して狂言と言うようになり、南北朝時代、この語が猿楽の滑稽な物まね芸を指す言葉として転用され、現在使用されている狭義の狂言の名前として定着する。江戸時代中期になると、芸能・芝居全般(歌舞伎や浄瑠璃)の別称としても広く用いられるようになり、現在で言うところの「歌舞伎」の正式名称「狂言」あるいは「狂言芝居」と区別がつきにくくなったため、狭義の狂言をわざわざ「能狂言」と表記する場合もあった。能は面(おもて)を使用する音楽劇で、舞踊的要素が強く抽象的・象徴的表現が目立つ。またその内容は悲劇的なものが多い。これに対し狂言は、一部の例外的役柄を除いて面を使用せず、猿楽の持っていた物まね・道化的な要素を発展させたものであり、せりふも含め写実的表現が目立つ。内容は風刺や失敗談など滑稽さのあるものを主に扱う。

✳3猿楽…7世紀頃に(南方)中国大陸より日本に伝わった日本最古の舞台芸能である伎楽や、奈良時代に伝わった散楽に端を発するのではないかと考えられている。
 散楽は当初、雅楽と共に朝廷の保護下にあったが、やがて民衆の間に広まり、それまでにあった古来の芸能と結びついて、物まねなどを中心とした滑稽な笑いの芸・寸劇に発展していった。それらはやがて申楽(猿楽)と呼ばれるようになり、現在一般的に知られる能楽の原型がつくられていった。この散楽が含む雑芸のうち、物真似などの滑稽芸を中心に発展していったのが申楽(猿楽)と言われる。当初は物真似だけでなく、散楽の流れをくむ軽業や手品、曲芸、呪術まがいの芸など、多岐に渡る芸能を行った。平安時代中期頃より、神道的行事が起源の✳4田楽や、仏教の寺院で行われた✳5延年などの芸能も興り、それぞれ発達していった。これらの演者は元々農民や僧侶だったが、平安末期頃から専門的に演じる職業集団も成立していった。平安時代後期に藤原明衡が著した『新猿楽記』には、「福広聖の袈裟求め・妙高尼の襁褓乞い」「京童のそらざれ・東人の初京上」のような演目が並んでいる。僧侶が袈裟をなくして探し回る、独身の尼さんに乳児用のオムツが必要になる、口の上手な京童とおのぼりさんの東人の珍妙なやりとり、といった寸劇が演じられ、都の人たちが抱腹絶倒していた様子が伺える。また同史料には、✳6咒師と呼ばれる呪術者たちへの言及が見られることから、✳7咒禁道の影響を受けた儀式を芸能と融合させたものがこの時期に存在しており、それらが✳9翁申楽(猿楽)へと発展したのではないかとの説もある。

✳4田楽…平安時代中期に成立した日本の伝統芸能。楽と躍りなどから成る。「田植えの前に豊作を祈る田遊びから発達した」「渡来のものである」などの説があり、その由来には未解明の部分が多い。
もともと耕田儀礼の伴奏と舞踊だったものが仏教や鼓吹と結びついて一定の格式を整え、芸能として洗練されていった。やがて専門家集団化した田楽座は在地領主とも結びつき、神社での流鏑馬や相撲、王の舞などとともに神事渡物の演目に組み入れられた。

中世以来、各地に伝わる民俗芸能の田楽をまとめると、共通する要素は次のようになる。

・びんざさらを用いる
・腰鼓など特徴的な太鼓を用いるが、楽器としてはあまり有効には使わない
・風流笠など、華美・異形な被り物を着用する
・踊り手の編隊が対向、円陣、入れ違いなどを見せる舞踊である
・単純な緩慢な踊り、音曲である
・神事であっても、行道のプロセスが重視される
・王の舞、獅子舞など、一連の祭礼の一部を構成するものが多い

歴史 
文献史料に残された田楽と、今日に伝わる郷土芸能の田楽には開きがあり、時期によってその中身に変化があったと考えられる。田楽の文献史料では992年の『和泉大鳥社流記帳』が最も古いとされるが、史料的にやや疑問がある。次いで古い記録には、998年の『日本紀略』に京都松尾神社の祭礼で山崎の津人が田楽を演じたという記録がある。

平安時代 
平安時代に書かれた『栄花物語』には田植えの風景として歌い躍る「田楽」が描かれており、大江匡房の『洛陽田楽記』によれば、1096年には「永長の大田楽」と呼ばれるほど京都の人々が田楽に熱狂し、貴族たちがその様子を天皇にみせたという。平安後期には寺社の保護のもとに座を形成し、田楽を専門に躍る田楽法師という職業的芸人が生まれた。

草創期の田楽は✳御霊会との結びつきが強く、仏事に演じられる舞楽に対して卑俗な演芸と見られていた様子が、比叡山の教円座主の若い頃のエピソードとして『今昔物語』に「近江国矢馳郡司堂供養田楽語第七」として残されており、当時の田楽の様子も活写されている。
御霊会…(ごりょうえ)とは、思いがけない死を迎えた者の御霊(ごりょう)による祟りを防ぐための、鎮魂のための儀礼であり、御霊祭とも呼ばれている。御霊自体は本来はミタマの意であった。平安時代、不慮の死を遂げた者の死霊=怨霊へと意味が転化する。そして、天変地異はすべて御霊の所業と考えられ、御霊に対する信仰が出来上がった。また、平安時代には、863年5月20日、神泉苑において御霊会が行われた。『金光明経』・『般若心経』と言った仏教経典の読経とともに、歌舞音曲や民衆参加の踊りなども行われた。これはこの行事が神道的な祟の除去を目的としたことや民衆の参加を許すことで政治への不満や社会への不安から目を逸らさせる効果があったからだと考えられている。後に各地の寺社で同様の行事が開催されて神輿渡御などの行列や風流・田楽と呼ばれる踊りなども加えられ、時期も疫病が多発する旧暦の5月から8月にかけてに集中するようになった。平安時代以降、疫神や死者の怨霊 などを鎮めなだめるために行う祭り。祇園 (ぎおん) 御霊会もその一つ。みたまえ。→御霊祭

鎌倉・室町時代 
鎌倉時代にはいると、田楽に演劇的な要素が加わって田楽能と称されるようになった。鎌倉幕府の執権北条高時は田楽に耽溺したことが『太平記』に書かれており、室町幕府の4代将軍足利義持は増阿弥の芸を好んだことが知られる。田楽ないし田楽能は「能楽」の一源流であり、「能楽」の直接の母体である猿楽よりむしろ高い人気を得ていた時代もあった。

田楽は、大和猿楽の興隆とともに衰えていったが、現在の能(猿楽の能)の成立に強い影響を与えた。能を大成した世阿弥は、「当道の先祖」として田楽から一忠(本座)、喜阿弥(新座)の名を挙げている。

近世以後 
江戸時代には一部の故実家や国学者が関心を向ける程度で、芸能としてはほぼ忘れ去られた存在となっていたが、大正末から戦後にかけて興った芸能史・民俗芸能研究とそのフィールドワークの結果、日本各地の神事祭礼のなかに残された田楽の記録が集積された。

郷土芸能 
現在までに、びんざさらを使う躍り系の田楽と、擦りささらを使う田はやし系の田楽とに分かれてきた。躍り系の田楽には、豊穣を祈念するものと、魔事退散を祈念するものとがある。

文化財指定
2009年現在、24件が民俗芸能の田楽の分類で、重要無形民俗文化財に指定されている。秋保の田植踊および那智の田楽はユネスコ無形文化遺産に登録されている。

✳5延年…(えんねん)は、寺院において大法会の後に僧侶や稚児によって演じられた日本の芸能。単独の芸能ではなく、舞楽や散楽、台詞のやりとりのある風流、郷土色の強い歌舞音曲や、猿楽、白拍子、小歌など、貴族的芸能と庶民的芸能が雑多に混じり合ったものの総称である。

正確な起源は不明だが、平安時代中頃より行われたと言われている。能の原型である猿楽との関連は深く、互いに影響を与えあったのは間違いないが、起源的にどちらが先かについては諸説ある。初期には下級僧侶や稚児らにより、法会や貴族来訪の際の余興として行われたと思われる。やがてこの寺院で行われる催しに人気が出始めていくにつれ、観衆をより楽しませるために上記のような様々な芸能を取り入れていった。演じ手も、芸に熟達した僧達を中心に行われるようになっていった。これら延年を専門的に演じる僧は「遊僧」「狂僧」と呼ばれた。

延年の語は、室町時代の書『庭訓往来』(ていきんおうらい、玄恵作と言われているが不明)中の「詩歌管弦者遐齢延年方也」の文による。このように、延年は長寿を祈念する意味合いが根元にあるとされる。

延年は、鎌倉時代・室町時代には盛んに行われた。一部の寺院における祭礼の際の延年は規模も大きくなっていった。延年風流と呼ばれる演劇的な出し物では、二階建ての装置や移動可能な山車のようなものなど、大がかりな舞台装置も使われる場合もあった。こういったけれん味のある舞台装置を使う発想は、後に歌舞伎に取り込まれていったとする説もある。室町時代以降は徐々に衰退していき、江戸時代にはほとんど行われなくなった。これには支配者層である武家階級が、能を手厚く保護したことなどが原因の一つとして考えられる。現在では、岩手県、栃木県などのいくつかの寺社で行われているのみである。それらも延年のごく一部が痕跡として残っているに過ぎない。現存する延年は44曲ある。

延年の舞 
延年で行われた舞を「延年の舞」と呼ぶ。この延年の舞は、他の芸能のなかに取り入れられていることがあり、そこから往事の延年の様子を窺うことができる。謡曲『安宅』(あたか)では、登場人物の弁慶が踊る男舞として、延年の舞が舞われることがある。この『安宅』を原作とした歌舞伎十八番の『勧進帳』では、弁慶役が延年の舞を舞う場面が見せ場の一つとなっている。
https://youtu.be/Z17VJXTE-Nw

✳6咒師…呪文(じゆもん)を唱えて加持祈禱(かじきとう)を行う僧。
✳7咒禁道…呪禁(じゅごん)とは、✳8道教に由来する術(道術)で、呪文や太刀・杖刀を用いて邪気・獣類を制圧して害を退けるものである。呪禁の中でも特に持禁(じきん)と呼ばれるものは、気を禁じて病気の原因となる怨気・鬼神の侵害を防ぎ、身体を固めて各種の災害を防止する役割があった(『令義解』「医疾令」)。また、出産時にも呪禁が行われて母子の安産を図った。そのため、古代においては一種の病気治療の手段の1つとして考えられ、日本の律令制にも典薬寮に呪禁博士・呪禁師が設置された。早い時期に呪禁に関する職制は衰微していき、同じく道術の要素を取り入れて占いなどにあたった陰陽道の役割拡大とともに、陰陽師が呪禁などによる病気平癒のための術を行使するようになった。なお、呪禁職制衰退の背景には、奈良時代後期に続いた厭魅や蠱毒に関わる事件との関連も指摘されている。
✳8道教…中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある。そのため「道教」の定義については、学者の間では論争が行われている。

✳9翁申楽(猿楽)…鎌倉時代には平安時代に成立した初期の申楽とは異なる芸態の申楽が出現した。現行の翁に相当する✳翁申楽である。1297年に書かれた『普通唱導集』では、もっぱら翁申楽について言及しており当時の申楽が翁申楽を本芸としていたことを物語っている。翁申楽は寺社の法会や祭礼に取り入れられたため、申楽は寺社との結びつきを強め、座を組織して公演を催す集団も各地に現れた。一部の申楽の座は、寺社の庇護を得て、その祭礼の際などに芸を披露した。最初は余興的なものとして扱われていたが、寺社の祭礼の中に申楽が重要な要素として組み込まれるような現象も起き始めた。寺社の由来や神仏と人々の関わり方を解説するために、申楽の座が寸劇を演じるようなこともあった。これらがやがて、「申楽(猿樂)の能」となり、公家や武家の庇護をも得つつ、能や狂言に発展していったと言われている。
翁猿楽…鎌倉後期に、寺社の✳法会(ほうえ)や神事の時に、翁猿楽(おきなさるがく)という呪術的な芸能を演じることを主な目的とする猿楽の座が作られ、南北朝期にはそうした猿楽座によって、能と呼ばれる演劇も演じられるようになります。猿楽だけでなく田楽(でんがく)も能を演じ、両者が競いあう中で能が成長していきますが、鎌倉時代の間は田楽の方が優勢でした。その状況を変えたのが、室町幕府3代将軍・足利義満の後援を得た大和猿楽・結崎座(ゆうざきざ)の観阿弥[1333年-1384年]です。観阿弥は、曲舞(くせまい)のリズムの面白さを能の謡(うたい)に加え、猿楽の地位を高めることに成功します。
法会…経典を読誦 (どくじゅ) し、講説する催し。また、死者の追善供養を営む行事。

座のなかでも、とくに大和申楽の四座、近江猿楽六座が名高い。もともと申楽(猿楽)は大和において「七道の者」であった。漂泊の白拍子、神子、鉢叩、猿引きらとともに下層の賤民であり同じ賤民階級の声聞師の配下にあった。室町時代には、鎌倉時代の猿楽が発展し観阿弥や世阿弥らの登場によって現在の能楽とほぼ同等の芸能としての申楽(猿楽)が形作られる。

申楽(猿楽)の集大成
申楽は平安時代には中央的ではなかったが、室町時代になると寺社との結びつきを背景に、延年や田楽の能(物真似や滑稽芸ではない芸能)を取り入れ、現在の能楽とほぼ同等の芸能として集大成された。

申楽・田楽・延年は、互いに影響を及ぼしあい発展していった。平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて同業組合としての座が生まれ、寺社の保護を受けるようになる。それが鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての動乱期を経て室町時代に入る頃になると、これに代わって武家が田楽を保護するようになり、それとともに衣装や小道具・舞台も豪華なものになっていった。このような状況の中、大和申楽の一座である結崎座より観阿弥が現れ、旋律に富んだ白拍子の舞である曲舞などを導入して、従来の申楽に大きな革新をもたらした。

このような革新の背景の一つと考えられているのが、当時行われていた「立ち会い能」と呼ばれる催しである。これは申楽や田楽の座が互いに芸を競い、勝負を決するというもので、「立ち会い能」で勝ち上がることは座の世俗的な成功に直結していた。観世座における猿楽の革新も、この「立ち会い能」を勝ち上がるためという側面があった。

1375年、室町幕府の三代将軍足利義満は、京都の今熊野において、観阿弥とその息子の世阿弥による申楽を鑑賞した。彼らの芸に感銘を受けた義満は、観阿弥・世阿弥親子の結崎座を庇護した。これがのちの観世座の前身である。この結果、彼らは足利義満という庇護者、そして武家社会という観客を手に入れることとなった。また二条良基をはじめとする京都の公家社会との接点も生まれ、これら上流階級の文化を取り入れることで、彼らは申楽をさらに洗練していった。その後、六代将軍足利義教も世阿弥の甥音阿弥を高く評価し、その庇護者となった。こうして歴代の観世大夫たちは、時の権力と結びつきながら、申楽を発展させ現在の能の原型として完成させた。

なお、室町時代に成立した大和申楽の外山座(とびざ)・結崎座(ゆうさきざ)・坂戸座(さかどざ)・円満井座(えんまいざ)を大和四座(やまとしざ)と呼ぶ。それぞれ、後の宝生座・観世座・金剛座・金春座につながるとする説が有力である。

(「時宗の踊り念仏が 申楽や狂言を取込んだ」とも考えられるが) 申楽(猿楽)を集大成させた観阿弥と世阿弥は時宗系の法名を持っており、時宗の踊り念仏の持つ鎮魂儀礼としての側面や、時宗が深く関わっていた連歌(特に花の下連歌と呼ばれる鎮魂儀礼としての連歌)が、後述する夢幻能の成立に強く影響したとの指摘がある。また中世の勧進聖が上演した唱導劇(仏教の教理を説く劇)も夢幻能の形式に強い影響を与えたと考えられている。時宗の踊り念仏は民衆の極楽往生願望が根底にあったが、同時に死者の追善供養の場でもあった。すなわち生前の行いによって地獄に墜ちている死者を、踊り念仏への供養によって救うという考え方である。こうした発想が12世紀から14世紀にかけて、寺社の造営資金を集めるための勧進興行へと発展し、田楽や猿楽もその興行の中に組み込まれていった。民衆を対象として仏教の教義を見せる勧進興行において、それまで「翁申楽」のような呪術的性格を持っていた(超自然の存在を主な観客と想定していた)例式に対し、いわば余興芸として演じられた「申楽能」は生身の人々を主な観客と想定する芸能へと進化していった。

また、世阿弥は幼少時は藤若と呼ばれた稚児で、東大寺の尊勝院に所属していたと考えられている。当時の仏教寺院の稚児は女装に近い服装や化粧をしている中性的な存在であり、また仏教僧の男色行為の対象でもあった。立花 や蹴鞠、連歌といった芸能も仏教寺院の稚児が必ず習得したものであった。こうした稚児独特の性的な位置づけや芸能が、世阿弥の能に強く影響を与えたとも考えられている。

現在能と夢幻能 
観阿弥は田楽のもつ面白さに曲舞の旋律を取り入れ、大和申楽(猿楽)を総合的ドラマとして創り出した。そして、世阿弥は「夢幻能」の完成を成し遂げ、現在までに伝えられる高度な芸術に飛躍させた。

現在能とは、現在進行しているように演じられるドラマのような能(劇能)である。例えば「安宅」は、歌舞伎の勧進帳の元になった曲であるが、シテ弁慶を中心に義経主従が奥州へ落ち延びようとしているところに、ワキ富樫(関守)がそれを疑い、弁慶の機転によって難関を脱出する様子を、時間の経過とともにストーリーが展開されていく。

これに対して夢幻能は「死者」が中心となった能である。八世観世銕之丞は夢幻能の大きな特徴として「死者の世界からものを見る」という根本的な構造を指摘している。すなわち、多くの場合、亡霊や神仙、鬼といった超自然的な存在が主役(シテ)であり、常に生身の人間である脇役(ワキ)が彼らの話を聞き出すという構造を持っているのである。これについて銕之丞は、観阿弥・世阿弥・金春禅竹らによって申楽が集大成された室町時代は政情不安の時代であり、死が人々にとって極めて身近なものであったことを、こうした構造の理由に挙げている。

梅若猶彦もこのような死者による語りの構造を重視し、能はこのような構造を持つことで、能独自の美の世界の構築を可能としていると指摘している。梅若はその例として、「実盛」のシテである斎藤実盛の亡霊がワキの夢の中に登場し、己の死に様を語りながら、己の生首を洗うという場面を挙げている。この場面ではシテ演じる実盛の亡霊には首が付いているのであるが、同時に実盛の亡霊は切り落とされた自分の生首を手に持っているのである。このような不条理な演出が可能となっている理由として梅若は、能が一般に「ワキの夢の中でシテが夢を見ている」という難解な構造を持っていることを指摘し、「死者による語り」という夢幻能の基本構造が、こうした他に例を見ない物語世界の構築を実現していると論じている。

即興芸術としての能 
また聖職者である呪師に代って、猿楽師という、いわばエンターテインメントの玄人によって例式の後の余興芸として行われるようになった能は、入念なリハーサルを行わない上に一度きりの公演であるという点も独特である。通常の演劇では事前にリハーサルを重ね、場合によってはゲネプロという形で全て本番と同じ舞台・衣装を用いるが、能では事前に出演者が勢揃いする「申し合わせ」は原則一回であり、しかも面や装束は使用しない。これについて前出の八世観世銕之丞は、能は本来、全て即興で演じられるものであり、出演者同士がお互いのことを解りすぎていることは、能においてはデメリットになると論じている。

幽玄と妙 
能が表現する美的性質として広く知られた概念に「幽玄」がある。能を大成した世阿弥の著述においても「幽玄」が意味するところは必ずしも一定していないが、例えば『花鏡』においては、同時代(室町時代初期)の公家の挙措や佇まいのように、「ただ美しく柔和なる体」を、つまり、「平安朝的な優美さを持つことで、女性的な美しさをいう」ことを「幽玄」としている。「あはれ」と「艶」との調和した静寂美と優雅美が合致して寂びて見える優美が能楽の「幽玄」といえる。

ただし、梅若猶彦は世阿弥の能論における最も重要な美的概念が「幽玄」ではなく「妙」であることを指摘しており、「幽玄」が能の美的側面における支配原理というわけではない。「妙」については世阿弥もその出現の原理や内容を完全に説明しきれておらず、「形無き姿」「無心」といった比喩によって説明を試み、またこの美的性質は子方の演技においても稀に感得されることがあると指摘している。梅若は「妙」と「幽玄」を比較し、「妙」はそれが現れた時には演技者と観客のいずれにも作用するものであるのに対し、「幽玄」はあくまでも演技者が観客に対して意図的に表現しようとする美的性質に留まると論じている。

能においては、仮面が様々な表情を見せるという意見は非常に多い。悲しみ、怒り、喜びなどそれらの表情が無表情の仮面の中に現れるというのである。これらは観客が演技者の演技によって、その世界に没入し感得することで得ているといえる。それらのように深奥にあるものを感じさせる、感じ取ることを幽玄の具体的な意味として受け取っている観客も多い。

世阿弥の著作 
1400年、世阿弥は『風姿花伝』を著した。この書の第一章にあたる「年来稽古条々」は「初心わするべからず」や「時分の花」などよく知られた内容があり、その理論は現代で通用するものと評価されている。内容には、観阿弥の考えも含まれていると考えられている。その後世阿弥は、『花鏡』、『拾玉得花』、『申楽談儀』(口述)など研鑽に基づく理論を伝書として残している。現在二十一種が伝書として知られている。

型附
現在でも、古くから続く家には、秘伝を記した書物が伝承されていることがある。これを「型附」(かたづけ)と呼ぶ。

織豊時代の申楽(猿楽) 
戦国時代には、猿楽の芸の内容に大きな発展はなかったと考えられている。また通説では、申楽は織田信長や豊臣秀吉ら時の権力者に引き続き愛好されていた。『宇野主水日記』によると、信長は1582年に安土(現在の近江八幡市安土町)の総見寺で徳川家康とともに梅若家の申楽を鑑賞しており、自身も小鼓をたしなんだと言われ、長男の信忠は自ら申楽を演じた、などともされている。ただし、信長が愛好したとして有名な「敦盛」は✳幸若舞であり能ではないにもかかわらず、映画やテレビで演じられる桶狭間の戦いの前の信長の舞は能の舞と謡いで行われ、そして司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく 四十三 濃尾参州記』のように「まず陣貝を吹かせ、甲冑をつけ、立ったまま湯漬けを喫し、謡曲「敦盛」の一節をかつ謡いかつ舞ったのは、有名である」などという誤りが広められてしまっていることには注意すべきである。
幸若舞(こうわかまい)…室町時代に流行した語りを伴う曲舞の一種。福岡県みやま市瀬高町大江に伝わる重要無形民俗文化財(1976年指定)の民俗芸能として現存している。能や歌舞伎の原型といわれ、七百年の伝統を持ち、毎年1月20日に大江天満神社で奉納される。

幸若舞を好んだ信長に対して、秀吉は晩年熱心に申楽を演じた。1593年10月には秀吉は後陽成天皇の前で、3日間続けて何番もの申楽を演じている。しかしその一方で、秀吉は✳大和四座以外の申楽には興味を示さなかったため、この時期に多くの申楽の座が消滅していった。いわば、現在能と称されている猿楽が、それ以外の申楽から秀吉によって選別されたのである。
大和四座(やまとしざ)…大和猿楽の諸座のうち、円満井 (えんまんい) ・坂戸 (さかど) ・外山 (とび) ・結崎 (ゆうざき) の四座。のちに、それぞれ金春 (こんぱる) ・金剛・宝生・観世の各座となった。猿楽四座 (よざ) 。

江戸時代の猿楽 
江戸時代には、徳川家康や秀忠、家光など歴代の将軍が猿楽を好んだため、猿楽は武家社会の文化資本として大きな意味合いを持つようになった。また猿楽は武家社会における典礼用の正式な音楽(式楽)も担当することとなり、各藩がお抱えの猿楽師を雇うようになった。間部詮房は猿楽師出身でありながら大名、さらには幼少の将軍を代行する事実上の国家の執政にまで出世した人物として知られている。

なお、家康も秀吉と同じく大和四座を保護していたが、秀忠は大和四座を離れた申楽師であった喜多七太夫長能に保護を与え、1615年から1624年に喜多流の創設を認めている。家康は観世座を好み、秀忠や家光は喜多流を好んだとされるが、綱吉は宝生流を好んだため、綱吉の治世に加賀藩や尾張藩がお抱え猿楽師を金春流から宝生流に入れ替えたと言われている。その結果、現在でも石川県や名古屋市は宝生流が盛んな地域である。

その一方、猿楽が武家社会の式楽となった結果、庶民が猿楽を見物する機会は徐々に少なくなっていった。しかし、謡は町人の習い事として流行し、多くの謡本が出版された(寺子屋の教科書に使われた例もある)。実際に観る機会は少ないながらも、庶民の関心は強く、寺社への寄進を集める目的の勧進能が催されると多くの観客を集めたという。四座一流に属さない役者による庶民を対象とした猿楽の興行も行われ、桃山時代に引き続き辻能と呼ばれた。

明治時代 
明治14年(1881年)、明治維新で衰微した猿楽の再興を目指して能楽社が設立された際に能楽と改称された。
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猿楽の能と田楽の能

 「能」という言葉がいつから出てきたのかは、はっきりしませんが、古くから芝居のことを示す言葉として使われていたようです。南北朝から室町時代には、能は概ね「猿楽能」と「田楽(でんがく)」の2種類に分かれていました。猿楽の能は、いかにその役柄に似せるか、という物まねを中心とする芸だったのに対し、田楽の能は舞いを中心としており、まねるというよりは象徴的に演じるものでした。田楽の能は、貴族社会でも受け入れられ、都で流行しましたが、猿楽の能は都では受けず、近江、丹波、伊勢など周辺地域が中心でした。

大和四座と立合能
猿楽、田楽ともに、当時は、「猿楽の座」「田楽の座」という座組みがあり、座頭である棟梁を頂いた芸能の共同体ができていました。特に、猿楽が盛んだった大和の国では、大和四座といわれる結崎(ゆうさき)座、坂戸(さかど)座、外山(とび)座、円満井(えんまい)座が力をもっていました。この四座は、結崎座が観世流に、坂戸座が金剛流に、外山座が宝生流に、円満井座が金春流にと、それぞれ能の流儀の礎となり、現在に至っています。

それぞれの座は、都に上り、活躍することを悲願としていたようです。そのためには、当時開催されていた「立合能(たちあいのう)」という芸能競技に参加し、勝ち残らなければなりませんでした。勝ち残れれば相当な優遇が期待できます。自分たちの芸風を認めてもらうために、熾烈な戦いがあったのです。座の存続と発展を賭けて、一座を統べる棟梁は、さまざまな芸術的知恵を絞りました。世阿弥が『風姿花伝』という芸術論を残したのも、自身が体得した芸術性を後継者へ残したかったからだといえるのかもしれません。

世阿弥の登場とその後
大和四座のひとつ、結崎座の創立者、観阿弥(かんあみ)は、それまでの物まね芸であった猿楽に、曲舞(くせまい)と語りの音曲の舞を導入した、新しい芸能を創りました。現在でも有名な謡曲「卒都婆小町(そとばこまち)」「自然居士(じねんこじ)」は、観阿弥の代表作です。

観阿弥の子・世阿弥は、父の芸能を受け継いだ能の大成者です。室町幕府の3代将軍足利義満や二条良基ら時の権力者たちのバックアップを得た世阿弥は、ライバルの芸を取り入れながら、幽玄の美学による「複式夢幻能」の様式を確立し、代表作の「井筒」をはじめ、50曲以上の作品を創作しました。これらは、今でもほぼ当時のままの詞章で上演されています。

世阿弥の没後も、甥・音阿弥、娘婿・金春禅竹などにより、能は発展を続けますが、応仁の乱による都の荒廃とともに衰退していきます。再び能に光を当てたのは、戦国時代に活躍した武将たちでした。なかでも天下統一を果たした豊臣秀吉はことさら能に興じ、金春大夫を重用して能を深く学び、自らも舞い、自分の功績をテーマにした能まで作らせたと記録されています。

近世から現代の能
続く徳川幕府も、能を保護しました。2代将軍徳川秀忠は、能と狂言を幕府の式楽と定め、大和猿楽四座と喜多流が公認されました。これにより、能の社会的地位が確立されたわけですが、能は庶民の間でも根強い人気を持っていました。一方、式楽として公認されたことで、能は芸術的により洗練されたものとなったものの、中世期のような創作力を発揮する機会が失われてゆきました。

徳川幕府の瓦解とともに崩壊の危機を迎えた能ですが、明治期には、新たに財閥や政府要人のバックアップも得て、一般の人びとが楽しめる芸能として、盛り返します。家元制度の導入、能と狂言を合わせて「能楽」としたこと、能舞台を屋内に組み込む能楽堂という舞台形態の確立は、明治期以降になされたものです。現在では、近代的に生まれ変わった家元制度のもと、能は「謡」や「仕舞」のお稽古事としても、裾野を広げています。

江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治維新後のことである。

解説 
能という語は、元々特定の芸能をさすものではなく、物真似や滑稽芸でない芸能でストーリーのあるもののことを全般に指す語であり、猿楽以外にもこれが用いられていたが、猿楽が盛んになるとともにほとんど猿楽の能の略称となった。1881年(明治14年)に能楽社の設立を機として猿楽を能楽と改称したため、能楽の能を指す語となったものであり、能楽のうち超自然的なものを題材とした歌舞劇のことで比較的高尚なものである(実世界に題材を求めた世俗的な科白劇が、狂言である)。

往々にして「能楽」と「能」を同義に用いたりする向きもあるが、誤りである。「能楽」については2008年にユネスコの無形文化遺産に登録された。

物狂・執心・怨霊・人情など他のジャンルに分類できないものは「雑能」(✳四番目物)と呼ばれる。

✳四番目物…能の分類で、正式な五番立ての演能の際に、四番目に上演される曲。脇能物・修羅物・鬘物(かずらもの)・切能物(きりのうもの)以外のすべての曲を広く含む。雑能物(ざつのうもの)。

能の曲柄。雑能とも。五番立ての正式番組による催能の場合,四番目に演ぜられる能で,初・二・三・五番目以外の能。現行92番。鬘(かつら)物に近い準鬘物の《西行桜》《小塩》,脇能物に似た準脇能物の《雨月》《三輪》,女物狂い,男物狂いの狂乱物,遊狂物の《自然(じねん)居士》,異邦的な遊楽物の《邯鄲(かんたん)》,この世に妄執(もうしゅう)を残す執心物の《通(かよい)小町》《善知鳥(うとう)》,復讐にあの世から現れる怨霊(おんりょう)物の《藤戸》《道成寺》,劇的な人情物の《俊寛》《鳥追舟》,現実の男をシテとする現在物の《安宅(あたか)》《小袖曾我》など。いずれもよく上演される。
→関連項目葵上|蘆刈|綾鼓|景清|砧(能)|小督|隅田川|蝉丸|卒都婆小町|能|鉢木

五番立て演能で、四番目に演ぜられる曲の総称。一括しにくいので雑能物ともいい、さらに分ければ、物狂物ものぐるいもの・現在物、そして執念物ともいうべき「葵上」「道成寺」その他の類がある。


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