見出し画像

斎王からの伝言[創作]10

10 シテ方

 2013年9月下旬、ミキが能楽の世界に飛び込んでから一年が過ぎようとしていた。住み込みの修行は、基本的に師匠の身の回りのお世話や能を習いに来る生徒さん達の稽古部屋準備、そして能楽公演のサポートで、肝心な自分の稽古が師匠の隙間時間だけだった。運営の仕組みを把握出来る一方で、技術上達の遅延を歯痒く感じていた。

 内弟子は、住む所と食事は提供をされるが、お給料が支給されない。諸々の経費は自分の貯金を切り崩して生活していた。すごく理不尽だと思うことが多々あり、この丁稚奉公の古い体質にも憤りを覚えた。でも能舞台に立つたびに辛さや怒りを忘れるほどの感動を味わい、この道が間違いではないのだと確認する作業を繰り返して何とかやってこられていた。

 「感覚を研ぎ澄ます」本で読んだような台詞が、感性を扱う人間にとっては真に迫った言葉なのだと分かったのも能のお陰だ。京都で受けてきたヴィパッサナー瞑想も大いに役立っている。能の主人公は幽霊が多く、目には見えないものを演じるために、ピリピリとした体の小さな電気信号をイメージで最大限膨らませて、自分が波となり、気の塊となる。そんな現実を飛び越える感性が必要だと思った。

 毎朝の日課が、謡(うたい)の練習。新作能を除くと謡に用いられている言葉は室町期の日本語で、今の人達には分かりずらい。そこが、観客を選別してしまう古典芸能だと思うところだ。能におけるすべての言語表現には、謡本があらかじめ用意されていて細かい点は師伝によって習得していく。謡を覚える事は必須だった。

 身支度を整え内弟子二人で師匠の自宅台所で素早く食事を済ませる。月二回のお稽古の準備と生徒さんへのお茶出し。シテ方では舞台で使う作り物も作る。師匠の舞台準備は週末・平日関係なくあり、楽屋でのお手伝い、チケット売り、お客様の対応にも追われる。師匠のスケジュール管理、三役との調整、会計、掃除、洗濯、1日じゃ足りないと思うほど目まぐるしい。その合間の稽古はクタクタで出来ないのではと当初は思っていたが、舞の練習は気力を養い、逆に充電されるのだと分かった。師匠を見ていて、休日というものが無い特殊な生業だから、仕事というよりは能楽師という生き方なのだと感じた。

 もう一人の内弟子は男性の為、離れの部屋に住んでいてミキは師匠宅に住まわせて貰っていた。お昼と夕食は師匠の奥さんが作ってくれる。基本的に和食が多く薄味でとても美味しい。昔ながらの大和撫子と言う言葉に値する稀有な女性だ。

 一番の楽しみは、修業の合間に舞台を見ることで、美しい能面や能装束を触れることができた。能装束と能面を身に付けて、謡ったり舞ったりする事は、重く苦しくすごくエネルギーを使うので女性の身では耐えられない重労働だ。そのために筋力トレーニングを毎日欠かさず行っていた。

 ミキには憧れの舞いがある。それは「翁」と「現在七面」だ。「翁」は「能にして能にあらず」と言われ神聖な儀式となっている。世阿弥の風姿花伝には「猿楽の祖とされる秦河勝(はだのこうかつ)の子孫、秦氏安(はだのうじやす)が、村上天皇の時代(10世紀ごろ)に、河勝伝来の申楽を六十六番舞って寿福を祈願したが、そこから三番を選んで式三番(「翁」の別称)とした。」と記してある。残念なことに女性は穢れとされ、楽屋の出入りも演じることも出来ない。演者は神となって天下泰平、国土安穏を祈祷する舞なのだ。
 「翁」を勤める役者は、翁興行前の1~3週間厳しい精進潔斎をしなければならない。獣肉を断つ、女人を遠ざける、冷水を浴び身を清める真剣な神事だ。
 毎年1月に公演が行われていて、今年もお稽古時代のように師匠の舞台を客席から眺めた。社寺と深く繋がっている能楽は、古来からの伝統を重んじ、変化を好まない。それゆえ先細りとなっているのだが、この幽玄な舞が無くなっていく事は、叡知を含有しているだけに日本にとって大きな損失になると思えた。昔の藩主や華族がしたように大々的に保護するべき大いなる重要無形文化財なのだ。

 もう一つの「現在七面」は稀曲で、後半シテが、二つの能面を重ねて付ける極めて珍しい演出となっていて、囃子方の演奏方法も変わっている。話は法華経の日蓮上人の庵という設定で、山梨・七面山頂の湖に棲む大蛇 (古代、部族間闘争で虐殺された七面山神殿巫女の無念の集合体)が里女となり籠居修行中の日蓮上人の前に現れ、女人成仏の説法を聴き、法華経の功徳によって成仏徳脱をして、龍女となり神楽を舞う。シテが三度面を変える唯一の曲で、後半には装束を二組着込み舞台の上で蛇神から龍女へと変身するのだ。初めて観た時の迫力が今でも忘れられずにいる。


「おはようございます。」スラリと背の高い端正な顔立ちの男性が、ミキに向かって挨拶をして来た。彼は笛方森田流、囃子方の一人で、能舞台の出演を依頼している。30才という若さと俳優ばりの容姿から、熱烈な女性の固定ファンが多く、彼を呼ぶとすぐ客席が満杯になる。

 今日は一回だけのリハーサル日で、三役も集結する。ミキはそのお世話係をしていた。
 
ミキ「ハルさん、おはようございます。リハーサル、宜しくお願いします。」なぜか彼を見ると顔が赤くなってしまう。

ハル「はい。」ニコッと笑うと綺麗な歯並びの白い歯を覗かせた。

【これは瞬殺だわ。平常心、平常心…】
異性に対しては、関心が薄い方だと自認していたが、ハルさんの前だけは、年甲斐もなく狼狽えてしまう。彼が居るだけで、空気が清浄になり、天から花が降ってくるのではないかと思えた。声も素敵で、物腰も柔らかく、周りに自然な気遣いができる。
【まさに完璧な王子】
女性達が彼を追いかけるのもうなずける。

ハル「ミキさんが内弟子になってから一年になりますね。時間が経つのは早いなぁ。要領も覚えられて、僕なんかすっかり頼ってますもん。」普段は器用に何でもこなし真面目でしっかりしているのだが、時折抜けた所を見せるため、母性本能をくすぐられる。

【彼は天性なのか、計算なのかが分からないなぁ。】
ミキ「私は下心があるんです。仕舞の練習の時、ハルさんに能管を吹いて欲しいと思っているんです。」ドキドキしながら答えた。

ハル「ハハハ、いいですね。付き合いますよ‼何の演目ですか?」

ミキ「ありがとうございます。私が演じてみたいのは、現在七面なんです。まだまだ未熟で、先のお話になりますけど…。」

ハル「現在七面ですか、それは僕も練習をしないといけないな。準備が整ったら連絡を下さい。楽しみにしています。」

ミキ「はい。」胸がキュンとした。

ハルは、他の三役達が来たのを確認して、じゃあと手を振り爽やかに戻って行った。

【平常心、平常心…師匠の動きに集中しなくては。】
師匠が稽古部屋に入って来たので、ミキは素早く頭を切り替えて、周りの動向に集中しだした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?